丘仲孚
- 丘仲孚、字は公信、呉興烏程の人。幼くして学を好み、従祖の丘霊鞠は人物鑑識に優れ、常に「千里の駒」と称した。斉の永明初、国子生に選ばれ高等で挙げられたが未調のまま郷里に還った。家貧しく自活できず群盗と結び三呉を劫掠する謀に加わったが、聡明で智略があり群盗はこれを畏服し行動は失敗しなかったため発覚もしなかった。太守徐嗣が主簿に召し、揚州従事・太学博士・于湖令を歴任し能吏として知られた。当時の権臣呂文顕が属県を陵辱していたが仲孚だけは屈しなかった。父の喪により去職。
- 明帝即位後、烈武将軍・曲阿令に起用。会稽太守王敬則の反乱で朝廷が備えぬまま前鋒が曲阿に迫った際、仲孚は吏民に「賊は勝ちに乗じて鋭いが烏合の衆で離散しやすい。船艦を収め長崗埭を鑿ち瀆水を瀉して路を阻めば数日は持ちこたえられ、その間に台軍が到着し大事は成る」と説いた。敬則の軍は瀆が涸れていたため果たして頓兵し進めず敗散した。仲孚は防戦の功で山陰令に遷り、治績で百姓の謡に「二傅沈劉不如一丘」(前世の傅琰父子・沈憲・劉玄明ら歴代山陰宰よりも一丘の方が優れる)と歌われた。
- 斉末の政乱で贓賄に関与し有司に弾劾され収監されようとしたが逃れて京師に還り、闕に詣でたところ赦により罪を免れた。高祖践阼後再び山陰令となり、煩雑な事を処理する才があり吏民に敬服され「神明」と称され、治績は天下第一とされた。車騎長史・長沙内史に遷り、任期未満で尚書右丞に徴され、左丞に遷り、衛尉卿に抜擢された。恩任は篤く、双闕の造営を大匠として管掌し、事が終わると安西長史・南郡太守に出て、雲麾長史・江夏太守・行郢州州府事に遷った。母憂により起用され職を摂り、事に坐して除名されるが、司空参軍として復起、豫章内史に遷る。清節を厲行し、まもなく卒す。享年48。詔して「豫章内史丘仲孚は重ねて大邦を任され後効を期待していたが、悔恨のみならず政績も挙がっており、突然の死は痛惜に堪えない。給事黄門侍郎を追贈すべし」とした。喪が豫章に還る際、老幼が号哭し車輪に取り縋って進めなかった。仲孚は左丞として『皇典』二十巻、『南宮故事』百巻を撰し、『尚書具事雑儀』も撰して世に行われた。