梁書卷五十一 列傳第四十五 劉歊

劉歊(士光)

  • 劉歊は字を士光といい、訏の族兄である。祖父の劉乗民は宋の冀州刺史、父の劉聞慰は齊の正員郎で、代々二千石の清名を得ていた。歊は幼くして聡明で、4歳で父を失ったが他の子供と違い遊びに興じることなく、6歳で『論語』『毛詩』を暗誦し理解できぬ箇所を進んで問うた。11歳で『荘子』逍遥篇を読んで「これは理解できる」と言い、客の問いに情理を尽くして答え、家人はいつも驚いたという。
  • 成長すると博学で文才があり、妻を娶らず仕官もせず、族弟の訏とともに隠居して志を求め、山水と書籍に遊びながら過ごした。世を避けたいと思いつつも老母がいるため離れられず、兄の霽・杳の任地にしばしば従った。若くして施しを好み人の急を救ったが求められれば断らなかった。長じてから「人から受ければ必ず報いねばならぬ、そうでなければ人に対して恥じることになる、いつまでも恥じ続けるわけにいかない」と嘆いた。
  • 天監17年(518年)にわかに『革終論』を著した。その論旨は――死生のことは聖人もあまり語らなかった。孔子は「精気が物となり、遊魂が変化を成す、鬼神の情状は天地に似て違わない」と言ったが、その言葉は簡約で意味は深く容易に断じがたい。季札は「骨肉は土に帰し、魂気はどこへでも行く」と言い、荘周は「生は労役、死は休息」と言ったが、一見矛盾するようで、実は原憲の説く夏・殷・周の葬礼の違い(明器を用いて無知を示す夏、祭器を用いて有知を示す殷、両者を兼ねて疑いを示す周)に照らせば、それぞれが一面の真理を示しているに過ぎないと説く。
  • 神とは生の本、形とは生の道具であり、死とはこの道具を離れることであって、あの道具(神)そのものが消えるわけではない。ゆえに霊は途絶えることなく変化し続けるとし、周人が両者を兼ねた礼を用いたのは理にかなうとし、孔子の「遊魂」の語もこれを示すという。
  • さらに、神が去った後の形骸(亡骸)を長く留めることは無益であり、むしろ速やかに朽ちさせるのが理にかなうとし、子羽が川に沈み、王孫(伯方)が壙のまま葬られ、楊王孫(黄壌士安)が麻の縄だけで葬られた故事を引いて「これらは理を得て教えを忘れた者だ」としつつ、自らはこの四者に倣いたいが、習慣を一朝に改めるのは難しいため、煩雑・厚葬を退け簡素・平易を旨とし、屍を清めず退けず、世俗を傷つけない程度の折衷を図りたいと述べる。
  • 孔子の「首足を斂め、還葬して椁を用いず」の語も貧者の礼として引き、張奐が幅巾のみを用いたこと、王粛が手足を清めるだけで済ませたこと、范冉が殮を終えてすぐ葬ったこと、文度が舟を棺代わりにしたこと、子廉が牛車で柩を運んだことなど、先人の簡素な葬送の例を挙げ、自らもこれに倣いたいとした。
  • 具体的には、息を引き取ったら魂を招く儀式を行わず、盥で清めて斂め、千銭で調達した棺・古着・裙衫・衣巾・枕・履のみを用い、それ以外の副葬品や祭祀の品は一切用いないこと、世に信じられる李彭の教え(葬送に関する俗信)は惑わされるに足らないとし、孔子・仏の教えを師とすればこの惑いはないとした。斂めた後は露車に載せて旧山に帰り、墓穴は棺が収まるだけの広さで塼を用いず、封土や植樹も不要、祭祀も設けず、茅君の虚座や伯夷の杅水のような形式も無用とし、この志を家族・親戚・友人・寓する者すべてに叶えてほしいと結んだ。
  • 翌年、疾により32歳で没した。歊が幼い頃、独り部屋にいると老人が現れ「心力勇猛にして生死の理を極める力を持つが、久しく一所に留まってはならぬ」と告げて指を弾いて消えたという逸話がある。長じて仏を篤く学び、道人の釈宝誌が興皇寺で出会い驚いて「隠居して道を学び、清浄で仏に登るとはこの人のことだ」と三度も語ったという。
  • 没する前の春、庭に人が柿を植えたのを見て甥の劉弇に「私はこの実を見ることはない、言うな」と語り、秋になって没した。人々はその予知の徳を称え、親故が誄して「貞節処士」と諡した。