梁書卷五十一 列傳第四十五 陶弘景

陶弘景は字を通明といい、丹陽秣陵の人。幼くして仙道を志し、齊に仕えたのち禄を辞して句容の句曲山(茅山)に隠棲し「華陽隠居」と号した。陰陽・医術・本草など諸学に通じ、高祖から篤く礼遇されて丹薬を献じるなど交流を続け、大同2年(536年)85歳で没した。

年表(5件)

陶弘景(通明)

  • 陶弘景は字を通明といい、丹陽秣陵の人。母が青龍が懐に入る夢と二人の天人が香炉を捧げる姿を見た後に身ごもり、弘景を産んだという。幼くして人並外れた志向を持ち、10歳で葛洪『神仙伝』を得て日夜研究し養生の志を抱き、「青雲を仰ぎ白日を見れば、俗世は遠く感じられない」と語った。
  • 成長すると身長7尺4寸、容姿明秀で琴・囲碁を善くし草書・隷書に巧み、万余巻の書を読んだ。20歳前に齊の高帝が輔政の際、諸王侍読に招かれ奉朝請に除せられたが、権門に身を置きながらも外物と交わらず読書に専念し、朝廷の儀礼故実の多くを彼に頼った。
  • 永明10年(492年)禄を辞する上表をし許され、束帛を賜り、公卿が征虜亭で餞別に集い車馬が街を埋めたといい、宋齊以来これほどの餞別はないと評された。句容の句曲山に隠棲し、この山は道教の第八洞天「金壇華陽の天」であり漢の三茅君がここで道を得たことから「茅山」と呼ばれると語り、山中に館を建て自ら「華陽隠居」と号した。
  • 東陽の孫遊岳に符図経法を学び、諸国の名山を巡って仙薬を求め、渓谷を通るたびに座って吟詠し立ち去りがたく思った。沈約が東陽太守であった頃、その志節を高く評価し何度も書を送って招いたが弘景は応じなかった。弘景は人柄が円満で謙虚、出処進退の判断も明鏡のごとく的確で、余計な言葉がなかったという。
  • 建武中(494-497年)齊の宜都王蕭鏗が明帝に害された夜、弘景の夢に鏗が現れ別れを告げ、幽冥の秘事を多く語ったため『夢記』を著した。永元初め(499年頃)三層楼を築き、自らは上層に、弟子は中層に住み、賓客は下層で応対して外界とは隔絶した。ただ一人の家僮のみが側に仕えた。松風の音を特に愛し、聞くたびに喜んだといい、時に独り泉石に遊ぶ姿は仙人と見紛われたという。
  • 著述を好み奇異な事柄を尚び、光陰を惜しんで老いてもなお篤く学問に励んだ。陰陽五行・風角・星算・山川地理・図籍・産物・医術・本草に通じ『帝代年暦』を著し、天体観測儀「渾天象」も自ら製作し「道を修めるために必要なだけで史官の仕事ではない」と語った。
  • 高祖の義師が建康を平定し禅譲の議が起こった際、弘景は図讖を援用して数か所に「梁」の字が現れることを示し、弟子に献じさせた。高祖は早くから弘景と交わりがあり、即位後は恩礼がいっそう篤く、書簡が絶えなかった。天監4年(505年)積金東澗に移り、辟穀・導引の術を修め、80歳を過ぎても壮健であった。張良の生き方を深く慕い「古の賢者に比べる者はない」と語った。
  • 仏の菩提記を授かり「勝力菩薩」と名付けられる夢を見て、鄮県の阿育王塔に詣で自ら五大戒を受けた。後に太宗(皇太子)が南徐州に臨んだ際、その風格を敬い後堂に召して数日語り合った。大通初め(527年頃)高祖に「善勝」「成勝」と名付けた二種の丹薬を献じ、いずれも佳品と称された。
  • 大同2年(536年)85歳で没し、顔色は変わらず身体も生前のままであったという。詔により中散大夫を贈られ「貞白先生」と諡し、舎人を遣わして喪事を監護させた。弘景は薄葬を遺命し、弟子はこれに従った。