梁書卷五十一 列傳第四十五 阮孝緒

阮孝緒は字を士宗といい、陳留尉氏の人。幼くして孝行かつ沈静な性格で知られ、伯父の遺産を辞退するなど清廉な逸話が多く、俗塵を避けて隠棲し「居士」と呼ばれた。度重なる出仕の求めにも応じず清貧を貫き、隠者の伝記『高隠伝』のほか『七録』など250巻の著作を残した。

年表(3件)
  • 天監初め御史中丞の任昉が訪ねようとしたが会えず、その名声の高さが窺われた
  • 天監12年513年范元琰とともに朝廷に召されたが、いずれも応じず
  • 大同2年536年58歳で没す。門徒は「文貞処士」と諡した

阮孝緒

  • 阮孝緒は字を士宗といい、陳留尉氏の人。父の阮彦之は宋の太尉従事中郎。孝緒は7歳で伯父の阮𦙍之の養子となった。𦙍之の母の周氏が没すると百万を超える遺産が孝緒に帰すべきところであったが、孝緒はこれを一切受け取らず𦙍之の姉に譲り、聞く者はみなその潔さに驚いた。
  • 幼くしてきわめて孝行で沈静な性格であり、子供と遊ぶ際にも池を掘り山を築く遊びを好んだ。13歳で五経に通じ、15歳で元服して父の彦之が「元服はいよいよ尊く人倫の始まりだ、自ら励んで身を保て」と誡めると、「赤松子や許由の生き方に倣い、俗塵を免れたい」と答えた。以後、居間に籠って人と会わず、家人すら顔を見ることが稀で、親友からは「居士」と呼ばれた。
  • 外兄の王晏が貴顕を極めていた頃、孝緒は必ず破滅すると見て隠れて会わなかった。ある時、美味な塩辛を食べていたが王家から得たものと知り吐き出したという。晏が誅殺された際も親戚一同が恐れる中、孝緒は「親しくとも徒党を組んでいなければ罪に及ばない」と述べ、実際に免れた。
  • 義師(高祖の挙兵軍)が京城を囲んだ際、家が貧しく炊事ができず、女中が隣人の薪を盗んで火を継いだのを知ると食事を拒み、屋根を撤して薪の代わりにさせた。住まいは鹿の寝床が一つあるだけで竹木に囲まれていた。
  • 天監初め、御史中丞の任昉は兄の阮履之を頼って訪ねようとしたが果たせず「その室は近くともその人は遥かに遠い」と嘆いた。名流に敬われることこのようであった。天監12年(513年)呉郡の范元琰とともに召されたがどちらも応じなかった。陳郡の袁峻が「昔は乱世で賢者が隠れたが、今は世が清まったのになお隠れるのか」と問うと、孝緒は「昔、周の徳が興っても伯夷・叔斉は薇蕨を厭わず、漢の道が盛んでも黄綺(商山四皓)は悶えることなく隠れた。仁を行うのはただ自らのことであり世の情勢に関わらない、まして私は先賢の類ですらない」と答えた。
  • 鍾山で講義を聴いていた際、母の王氏が病を得て兄弟が呼びにやろうとすると、母は「孝緒は霊妙な感応があるから自ら気づいて来るはずだ」と言い、実際に孝緒は胸騒ぎを覚えて戻った。薬に必要な人参を得るため、鍾山を険しい場所まで幾日も探し求め、鹿に導かれてある場所に至るとついに手に入れ、母はこれを服して快癒し、人々はその孝の感応と称えた。
  • 占いの上手な張有道が「あなたの隠遁の跡は分かるが心の内は測りがたい、亀甲や蓍で占うほかない」と述べ、卦を立てると「咸(感応)の卦」が出て「これは嘉遁の兆ではない」と言うと、孝緒は「上九の爻が出ぬとどうして分かるか」と応じ、果たして遁卦の上九「肥遁にして利あらざるなし」が現れ、有道は「志と実践が一致している」と感嘆した。孝緒は「遁卦を得ても上九の爻が動かなければ昇進の道が開けるということだ、いずれにせよ高く辞去すべきだ」と述べたという。
  • 炎帝・黄帝から天監末に至る隠者たちの伝記『高隠伝』を著し、上・中・下の三品に分けた。またその論では、至道の本は無為にあり、聖人の跡は世の弊を救うことにあるが、跡が本を損なう恐れがあるため、丘(孔子)や老聃(老子)のような聖賢はそれぞれ跡か本かを抑えて示したのだと説き、聖人の跡と本を体得しうる者こそ孔・莊の意を半ば得た者だと論じた。
  • 南平元襄王が名声を聞いて招いたが赴かず、孝緒は「富貴に驕らないのではなく、朝廷という場そのものを恐れるのだ、麋鹿を馬車に繋いでも良馬にはならない」と述べた。建武末(498年頃)清渓宮の東門が理由なく崩れ、東宮門外の楊の木が大風で倒れた際、ある人が孝緒に問うと、「青渓は齊の旧宅で齊は木行、東は木の方位にあたる、その東門が壊れたのは木の勢いが衰えた兆しだ」と答えた。
  • 鄱陽忠烈王妃(孝緒の姉)が訪ねようとした際も垣根を破って逃げ、外甥からの季節の贈り物も一切受け取らなかった。所有していた石像が損壊していたのを心の中で修理したいと願うと、一夜にして完全に修復されていたという不思議もあった。
  • 大同2年(536年)58歳で没した。門徒はその徳行を誄して「文貞処士」と諡した。著書『七録』など250巻が世に行われた。