梁書卷五十 列傳第四十四 伏挺

若き才と隠棲

  • 伏挺は字を士標といい、父の伏暅は豫章内史で良吏伝に記される。挺は幼くして聡敏、7歳で『孝経』『論語』に通じ、成長すると才思豊かで五言詩を能くし謝康楽(謝霊運)の体を巧みに模した。父の友人であった任昉は深くこれを称え「この子には日下並ぶ者がない」と評した。
  • 齊末、州から秀才に挙げられ、対策(政策論)は当時第一とされた。高祖の義師が至った際、新林で出迎え、高祖はこれを喜び「顔子(顔回)だ」と言って征東行参軍に引き入れた。時に18歳であった。
  • 天監初め中軍参軍事に除せられ、潮溝の自宅で『論語』を講じ、朝廷中の人々が挙ってこれを聴いた。建康正に遷ったがまもなく弾劾されて免ぜられた。しばらくして尚書儀曹郎、西中郎記室参軍に遷り、晉陵・武康の令を歴任したが、県を退いた後は東郊に居を構え仕官しなかった。

徐勉との往復書簡

  • 挺は名声があり世の顕貴とも交わりを持ちながら、隠棲を好み久しく仕えなかった。僕射徐勉が病で自邸に籠っていた頃、挺は書を送りその心境を綴った――昔の士徳・輔嗣の故事を引いて旧交への思いを述べ、秋の景色の中での隠遁生活、心動くままに詩文を詠むこと、先に贈った小文への過分な賞賛を恐縮する心情、贅沢を退け質素な暮らしに徹していること、留侯(張良)の隠退や韓卿(韓信)の辞退に倣いたいと願う一方、徐勉には民のため政務に励んでほしいと結ぶ内容であった。
  • 徐勉の返書は、挺の才を早くから称え博学ぶりを讃え、武城弦歌(子游の善政の故事)や桐郷の謡(善政を慕う故事)を挙げて出仕を勧め、自らも隠棲を望みながら世の乱れゆえに退けずにいる苦衷を述べ、挺の文才を仲宣(王粲、蔡邕に見出された)や正平(禰衡、孔融に見出された)になぞらえて世に出るよう促し、訪問を望むと結んだ。
  • 挺は後に出仕し、南台治書となったが、賄賂の事件に連座して弾劾を恐れ、服を変えて道人(僧)と偽り身を隠した。後に赦免され大心寺に身を置いた。
  • 邵陵王が江州に赴く際、挺を伴い文才を重んじて厚遇したため、挺は還俗して王に従い郢州に移った。都に召されて京尹となったが挺は夏首にとどまり、しばらくして都に戻った。太清中、呉興・呉郡に遊んでいたところ侯景の乱に遭い、乱中に没した。『邇説』10巻、文集20巻を著した。
  • 子の伏知命は先に父に従って邵陵王に仕え掌書記となったが、乱中に王の軍が郢州で敗れると侯景に投降した。父が官途に恵まれなかったことを深く恨んでいた知命は侯景に心を尽くして仕え、侯景が郢州を襲い巴陵を包囲した際の檄文はすべて彼の筆になるものであった。侯景が帝位を纂うと知命は中書舎人となり権勢をふるったが、侯景が敗れると捕らえられ江陵に送られ獄中で没した。挺の弟の伏捶も文才で知られ、先に邵陵王に招かれ記室、後に中記室参軍を務めた。