梁書卷五十 列傳第四十四 何思澄

何思澄(元静)

  • 何思澄は字を元静といい、東海郯の人。父の何敬叔は齊の征東録事参軍・餘杭令であった。
  • 思澄は幼くして学に勤め文辞に巧みで、南康王侍郎として起家し、安成王左常侍兼太学博士、平南安成王行参軍兼記室を歴任。江州に随行した際に作った「遊廬山詩」は沈約に大いに賞賛され、沈約自身「及ばない」と自認したほどで、沈約の郊居宅に新築した閣斎に、この詩を工人に命じて壁に書かせたという。
  • 傅昭はしばしば思澄に釈奠の詩を作らせ、その文辞は典雅であった。廷尉正に任じられ、天監15年(516年)、勅により太子詹事の徐勉が学士を華林省に召して『徧略』を編纂させた際、勉は思澄ら5人を選んだ。
  • 治書侍御史に遷った(宋齊以来この職は軽んじられてきたが、当時再びその選考が重視され、車の前に尚書の二丞に倣って三人の騎従をつけ、印綬を入れた青囊を捧げ持たせるようになった)。
  • 秣陵令に遷り、東宮通事舎人を兼ね、安西湘東王録事参軍兼舎人となった。徐勉・周捨はともにその才を愛し、代わる代わる招いた。昭明太子が薨じると黟県令に出され、宣恵武陵王中録事参軍に遷り在官のまま54歳で没した。文集15巻。
  • 思澄は当初、一族の何遜とその子の何子朗とともに文名を馳せ、世に「東海三何」と称された。子朗が最も優れるとの評判に思澄は「そうではない、もしそうでなければ遜のはずだ」と述べたが、内心では自分こそふさわしいと思っていたという。
  • 何子朗は字を世明といい、早くから才思に富み、周捨と語り合っては精緻な論理で服させた。かつて荘周の「馬棰」に擬して『敗冢賦』を作り巧みさで評判となり、世人は「人中爽爽何子朗(人中ひときわ爽やかな何子朗)」と称した。員外散騎侍郎を経て固山令に出たが、24歳で没した。文集は世に行われた。