周興嗣
- 字は思纂、陳郡項の人、漢の太子太傅周堪の後裔。高祖の凝は晉の征西府參軍宜都太守。姑孰に世居し13歳で京師に遊学すること十余年、諸書に博通し文章を能くした。姑孰から都へ歩いて帰る途中の逆旅で「君の才学は世に抜きん出て貴臣に見出されるだろう」と告げる者があったという逸話が伝わる。
- 齊の隆昌中、侍中謝朏が吳興太守となった際、興嗣とだけ文史を語り合うほど重んじられ、離任後に大いに推薦されて本州秀才に挙げられ桂陽郡丞となった。太守王嶸にも厚遇された。
- 高祖の革命に際し「休平賦」を奏上しその美文を賞され、安成王國侍郎兼直華林省となった。河南から舞う馬が献上された際は到沆・張率とともに賦を作らされ、高祖は興嗣の作を最も巧みとして員外散騎侍郎に抜擢、文徳壽光省に直させた。三橋の旧宅を光宅寺とする際には陸倕とともに碑文を作らせ、高祖は興嗣の作を採用した。以後、銅表銘・柵塘碣・北伐檄、王羲之の書に次韻した千字文まで、みな興嗣に作らせ、高祖は奏るたびに称賛し金帛を賜った(「千字文」の由来)。
- 新安郡丞から員外散騎侍郎に復し国史の撰述を助け、給事中に転じたが両手に風疽を患い左目も失明した。高祖は自ら手を撫でて嘆き治療の方を書き与えたという。任昉も才を愛し「興嗣が病さえなければ御史中丞に至っただろう」と評した。臨川郡丞・給事中を経て左衛率周捨が高祖の『歴代賦』に注を付す際にも補佐し、普通二年に没した。『皇帝実録』『皇徳記』『起居注』『職儀』等百余巻、文集十巻を著す。