何遜
- 字は仲言、東海郯の人。曽祖の承天は宋の御史中丞、祖父の翼は員外郎、父の詢は齊の太尉中兵參軍。遜は8歳で詩を賦し、弱冠で州の秀才に挙げられた。南鄉の范雲がその対策文を見て高く評価し忘年の交わりを結び、詩文を見るたびに感嘆し、人に「近頃の文人は質朴に過ぎれば野に俗し、華麗に過ぎれば俗に流されるが、この人は清濁を兼ね古今を含んでいる」と称えた。沈約もその文を愛し「私は君の詩を一日に三度読んでも飽きない」と語ったといい、名声はこのように高かった。
- 天監中に奉朝請から出仕、中衛建安王水曹行參軍兼記室として王に愛され宴遊に日々従い、王の江州転任にも記室として随行。安西安成王參軍事兼尚書水部郎に転じたが母の喪で去職、服闋後は仁威廬陵王記室として再び江州に随行し、間もなく没した。東海の王僧孺がその文を集め八巻とした。当時、遜の文章は劉孝綽と並び「何劉」と称された。世祖(元帝)は論を著し「詩多くして能くする者は沈約、少なくして能くする者は謝朓・何遜」と評した。同時代に會稽の虞騫が五言詩に巧みで名声は遜と並び、また會稽の孔翁歸・濟陽の江避も南平王大司馬府記室として文名があった。