序
- 司馬遷・班固が『史記』『漢書』で司馬相如伝を立てたのは、彼が漢廷の大事に与らずとも文章の優れたことを重んじたからであり、賈誼・鄒陽・枚乗・路温舒らの伝も同様である。范曄の『後漢書』には文苑伝があり、載せる人物の詳細さもまた甚だしい。礼楽を経とし国家を緯し、古今を通じ美悪を述べるには文でなければ叶わない。ゆえに天下に君臨する者はみなその意義を重んじ、士大夫もその道を貴んできた。
- 高祖は聡明にして文思に富み、異才を広く求めて文章の盛んなことは煥然たるものであった。行幸のたびに群臣に賦詩を命じ、優れた作には金帛を賜り、闕廷に賦頌を献ずる者は引見された。当代の文人として沈約・江淹・任昉は文采に優れ功績もあったため別に伝を立てるが、彭城の到沆・吳興の丘遲・東海の王僧孺・吳郡の張率らは文徳殿・壽光殿に入直するなど後進の選であった。ここでは到沆ら文章に学識を兼ねた者から太清年間の人物までを「文学伝」としてまとめる。
到沆
- 字は茂瀣、彭城武原の人。曽祖の彦之は宋の將軍、父の撝は齊の五兵尚書。5歳のとき父が屏風に写した古詩を一遍聞いただけで諳んじたという。長じて学問に励み文章・篆隷を能くし、美しい風采で人を惹きつけた。
- 齊の建武中に出仕、天監初年に征虜主簿を経て、高祖に才を愛され東宮建立後は太子洗馬となった。文徳殿学士省に召され籍を通じ古典の校定に携わった。高祖が華光殿の宴で群臣に二百字の詩を刻限二刻で作らせた際、沆はその場で立って美文を奏上した。
- のち洗馬として東宮書記を管掌、殿中曹侍郎などを経て太子中舎人に昇進。人柄は謙虚で他人の長短を論じず、任昉・范雲と親交があった。丹陽尹丞から北中郎諮議參軍を経て天監五年、官のまま没した。享年三十。高祖は深く惜しみ銭二万・布三十疋を賜った。詩賦百余篇を著した。