賀瑒
- 字は徳璉、會稽山陰の人。祖父の道力は三礼に長じ宋の尚書三公郎・建康令。瑒は家学を継ぎ、齊の劉瓛に器を認められ、張融に「この生は将来儒者の宗となろう」と評された。国子生に挙げられ揚州祭酒・国子助教・奉朝請・太学博士・太常丞などを歴任、母の喪で去職。
- 天監初年、太常丞に復し賓礼を進講して高祖に才を認められ、朔望に華林で講義した。天監四年、五経博士のひとりとなり皇太子のため礼を定め五経義を撰し、高祖の礼楽制定に多く献策した。天監七年に步兵校尉・五経博士を拝命、九年に病没。享年五十九。禮・易・老莊の講疏や朝廷博議数百篇、賓礼儀注百四十五巻を著し、生徒は常に百数十人、明経で対策に及第する者も数十人に上った。
- 子の革(字は文明)も三礼・孝経・論語・毛詩・左傳に通じ、晉安王國侍郞・太學博士・尚書儀曹郞・秣陵令・国子博士などを歴任し、荊州では儒林祭酒として三礼を講じ聴衆多数を集めた。孝行篤く貧しい任地でも俸秩を故郷の寺造営に充て、大同六年に官のまま没した。享年六十二。弟の季も三礼に明るく歩兵校尉・中書黃門郎などを歴任した。