梁書卷四十七 列傳第四十一 庾黔婁

庾黔婁

  • 字は子貞、新野の人。父の易は司徒主簿に召されても応じず高名があった。黔婁は学を好み『孝経』を講じ、人と接して常に失色せず、南陽の劉虬・宗測に称賛された。編令となると、それまで虎害の多かった県境から虎が去ったと言われ、仁化の感応と評された。
  • 孱陵令在任中、父の病を心の動悸で予感し即日棄官して帰郷。医者が病状を知るには糞を嘗めて甘苦を見よと言うと、黔婁は自ら嘗めて味の変化に憂苦した。夕べには北辰に額づき身代わりを願い、空中に「寿命は延ばせぬが、汝の誠は月末までの猶予を得た」との声を聞いたという。果たして月末に父は没し、黔婁は礼を過ぎて墓側に廬した。
  • 梁台建立後、益州刺史鄧元起の府長史・巴西梓潼太守となり、成都平定で財宝が積まれた際、元起が僚佐に分与しても黔婁だけは一切受け取らなかった。元起の死後は自ら遺骸を営み喪柩を携えて帰郷。その後も清廉な治績を重ね、東宮で皇太子の侍読を務めるなど重用され、荆州大中正・散騎侍即を経て没した。享年四十六。