梁書卷四十六 列傳第四十 杜崱
杜崱(京兆杜陵の人)は父杜懐宝の跡を継ぐ雍州の将で、太清2年(548年)の岳陽王による荊州襲撃の際、兄弟とともに世祖に帰順し、以後侯景討伐で功を重ねた。兄の杜岸・弟の杜㓜安、甥の杜龕もそれぞれ武将として活躍したが、杜岸は襄陽攻略に失敗し戦死し、杜㓜安は郢州陥落後に侯景へ降ったのち殺され、杜龕は陳霸先との抗争の末に殺害された。杜崱自身は各地の反乱鎮圧で功を重ねたのち鎮所で病没し、武と諡された。
出自と父・懐宝
- 杜崱は京兆杜陵の人。先祖は北から南へ移り雍州襄陽に住んだ。祖父・霊啓は南斉の給事中、父・懐宝は高祖の義軍に従い南平王偉とともに襄陽を鎮め、天監中に功を重ねて驍猛将軍・梁州刺史に至った。
- 大同初年、北魏の梁州刺史元羅が州を挙げて帰順すると懐宝は華州の督に進み、秦州の武興氐王楊紹の反乱を撃破したが、大同五年(539年)に鎮所で没した。崱は懐宝の第七子。
世祖への帰順と侯景討伐
- 若くして胆勇で知られ、廬江驃騎府中兵参軍から世祖の荆州募兵に参じ、新興太守となった。太清二年、岳陽王に従って荆州を襲った際、世祖と旧交があったことから兄の岸・弟の㓜安・兄子の龕らとともに夜陰に世祖のもとへ帰順した。
- 持節・信威将軍・武州刺史、のち宣毅将軍・鎮蛮護軍・武陵内史・枝江県侯(食邑千戸)を歴任。王僧辯に従い巴陵で侯景軍の攻囲を退け、石頭での決戦では景の本隊を背後から急襲して大敗させる功を挙げ、江州刺史に進んだ。
- 北斉の郭元建が秦郡を攻めた際は王僧辯の命で救援に赴き、陳霸先とともに土林で大破、首級一万余・捕虜千余を得た。
- 承聖二年(553年)、陸納らの長沙反乱では車輪の戦いで二塁を陥し、また武陵王討伐では硤口でこれを破った。まもなく鎮所で病没し、詔して車騎将軍・鼓吹一部を追贈、諡は武。崱の兄弟は九人おり、嵩・岑・嵸・岌・嶷・巚・岸と弟の㓜安がともに当世に名を知られた。
杜岸――襄陽攻めと戦死
- 杜岸(字は公衡)は縦横の術を好み、太清中に崱とともに世祖へ帰順、持節・平北将軍・北梁州刺史・江陵県侯(食邑千戸)となった。襄陽攻略を志願したが陥とせず、岳陽王軍が迫ると兄の巚を頼って南陽へ逃れたものの、南陽も攻め落とされ岸・巚ともに殺害された。
杜㓜安――侯景討伐から降伏
- 杜㓜安は至孝寛厚で武勇に優れ、崱とともに世祖に帰順し雲麾将軍・西荆州刺史・華容県侯(食邑千戸)となった。王僧辯とともに河東王誉を長沙で討ち平らげ、また徐文盛の東討にも従い貝磯で任約軍を破って儀同叱羅子通・湘州刺史趙威方らを討ち取った。
- 侯景が蘆洲に迫ると徐文盛軍と共に迎撃してこれを破ったが、景が別に郢州を奇襲・陥落させたため軍は総崩れとなり、㓜安はやむなく景に降った。侯景は㓜安の変わり身の早さを危ぶみこれを殺した。
杜龕――王僧辯配下としての戦功と最期
- 杜龕は崱の兄・岑の子で、太清中に世祖へ帰順し忠武将軍・鄖州刺史・廬県侯(食邑千戸)となった。叔父の㓜安とともに河東王討伐に従い、徐文盛軍にも参陣。侯景が郢州を奇襲すると王僧辯とともに巴陵で防いだ。
- のち王僧辯に従い江夏で景の将・宋子仙を追撃して生擒。大宝三年、姑孰・石頭の戦いで陳霸先・王琳らとともに侯子鑒・侯景本隊を撃破し、功第一として平東将軍・東揚州刺史に進んだ。
- 承聖二年、陸納討伐・武陵王討伐にも従軍し功を挙げた。江陵陥落後、貞陽侯擁立に伴い震州刺史・呉興太守、のち鎮南将軍・都督南豫州諸軍事・南豫州刺史・溧陽県侯となった。
- 龕は王僧辯の婿であった。陳霸先が微賤の出であることを軽んじ、呉興太守として法を厳しく適用したため霸先の恨みを買っていた。霸先が僧辯を殺すと、龕は呉興に拠って抗戦したが、副将・杜泰が長城で陳蒨に敗れ、さらに霸先配下の周文育に攻められて義興へ敗走。霸先自ら包囲する中、北斉の柳達摩らが京師を襲う報を受けて霸先が一時撤退すると和議を結んだが、斉軍撤退の報を聞いた龕はついに降伏し、殺害された。