出自と対侯景戦
- 陰子春(字は㓜文)は武威姑臧の人。晋の義熙末年、曽祖・襲が宋の高祖(劉裕)の南遷に従い南平に移り住んだ。父・智伯は梁の高祖(蕭衍)と隣人で若くして親交があり、高祖の異相を見て「後に必ず大貴、天下を安んずる者になる」と告げたという逸話が伝わる。高祖即位後は梁秦二州刺史に至った。
- 子春は天監初年に宣恵将軍・西陽太守として起家し、普通年間に明威将軍・南梁州刺史、さらに信威将軍・都督梁秦華三州諸軍事・梁秦二州刺史に進んだ。太清二年(548年)、峡中の反乱蛮族を討平し左衛将軍・侍中に召された。
- 侯景の乱では世祖の命で王僧辯に従い邵陵王を郢州で討平し、また徐文盛の東討にも従軍。貝磯で侯景軍と戦い常に諸軍の先頭に立って奮戦したが、郢州陥落により軍は退却を余儀なくされた。大宝二年(551年)、江陵で没した。孫の顥は若くして名を知られ、奉朝請から尚書金部郎を経て、のち北周に入り『瓊林』二十巻を著した。
史論
- 史臣は、胡僧祐は勇敢で幾度も敵旗を奪う武功を立て、最後は身を捐てて王事に殉じたことを古の忠烈に劣らぬと称える。一方、徐文盛は当初功績を立てながらそれを最後まで守れず不義に陥ったと断じ、杜崱は機を見るに敏く向背の理を弁え、身をもって幾度も軍を率いて賊を平らげ中興の功臣となったと評し、その義を称えた。