梁書卷四十三 列傳第三十七 柳敬禮

出自と経歴

  • 柳敬礼、開府儀同三司柳慶遠の孫、父柳津は太子詹事。敬礼は兄柳仲礼とともに若くして勇烈で知られ、著作佐郎として起用され、累進して扶風太守に遷った。侯景が渡江すると、敬礼は歩騎3千を率いて救援に赴き都に至り、青溪埭に拠って景の軍と繰り返し交戦し常に先陣を切って陣を陥した功名で知られた。台城が陥落すると、敬礼は仲礼と共に景に捕らえられた。景は仲礼を上流の経略に遣わし、敬礼を人質として留め護軍とした。
  • 景が仲礼を後渚で送別した際、敬礼はひそかに仲礼に「景が今宴に来たら、私が抱きついている隙に兄が佩刀を抜いて斬り殺せばよい。私は死んでも悔いはない」と持ちかけ、仲礼はその言葉を壮とし承諾した。しかし酒宴が進み敬礼が仲礼に目配せしても、仲礼は警備が厳しいのを見て動くことができなかった。この計画は結局実現しなかった。
  • 後に景が晋熙を征伐した際、敬礼は南康王蕭会理と共にその城を襲う計画を立て、決行の期日を定めていたが、建安侯蕭賁がこれを知って密告したため、敬礼は殺害された。

史論

  • 史臣は評す。命よりも義を重んじることは古典に垂訓として示され、先哲の貴んだところである。孟子は「生もまた我が欲する所、義もまた我が欲する所なり、二つながら得られなければ、生を捨てて義を取る」と述べた。張嵊ら数名の徒は、身を捨てて節義に殉じ、死に赴くことをまるで帰るかのようであった。その気概は古今を覆うほどで、君子は梁代に忠臣がいたことを知るのである。