出自と経歴
- 沈浚、字叔源、呉興武康の人。祖父沈憲は斉の散騎常侍で『斉史』に伝がある。浚は若くして博学で才幹があり、山陰・呉・建康の令を歴任しいずれも良吏として知られた。中書郎・尚書左丞に入り、侯景が京城に迫ると御史中丞に遷った。
- 折しも外部からの援軍が到着し、侯景が上表して和議を求めると詔でこれを許した。盟約が成立した後、景は城内で疫病が流行していると知り、なお姦計を抱いて数日間立ち去らなかった。皇太子は浚に命じて景の陣所に赴かせた。景は「もう暑気の季節に入り、行軍には適さない。十万の大軍をどう撤退させるというのか。まだ功を立てたい、朝廷のためにこの旨を伝えてほしい」と述べた。
- 浚は「将軍のこの弁は城を得ることが目的であろう。城内の兵糧はなお百日は持ちこたえられる。将軍の蓄えは既に尽き、国家の援軍は外に十万集結している中で、何を頼みにそのようなことを言い、朝廷を脅そうとするのか」と正論を返した。景は膝の上に横たえた刀を突きつけ怒りの目で浚を叱ったが、浚は顔色を正して「明公は臣下の身でありながら兵を挙げ闕を犯し、聖主は恩を施して過ちを赦し既に盟約を結んだのに、その口の血もまだ乾かぬうちに翻意されるのか。沈浚、60の齢に至り天子の使いとして死生は天命、逆臣の刃を恐れることなどあろうか」と応じ、顧みずに退出した。景は「これぞ真の司直だ」と述べたが内心深く恨み、後に張嵊を破ると浚を求めてこれを殺害した。