出自と経歴
- 張嵊、字四山、鎮北将軍張稷の子。若くして端正で志操があり、清談に長けた。父が青州で在任中、土地の民に殺害されたため、嵊は家の禍を悲しみ、一生蔬食・布衣で通し刀を手にしなかった。州の推挙で秀才となり、秘書郎として起用され、累進して太子舎人・洗馬・司徒左西掾・中書郎を歴任、出向して永陽内史となった。還って中軍宣城王司馬・散騎常侍に任じられ、再び出向して鎮南湘東王長史・尋陽太守となった。
- 中大同元年(546年)、太府卿に召され、まもなく呉興太守に遷った。太清2年(548年)、侯景が京城を包囲すると、嵊は弟の張伊に郡兵数千を率いさせ救援に向かわせた。太清3年(549年)、宮城が陥落すると、御史中丞沈浚が難を避けて東に帰った。嵊は浚に会って「賊臣が社稷を脅かし危急存亡の秋、まさに人臣が命を捧げる時。今、兵力を集め本拠を固め守りたい。もし天道が非情で忠節を尽くせなくとも、死を賭す覚悟に悔いはない」と述べた。浚は「わが郡は小さいとはいえ、義を掲げ逆賊を拒めば従わぬ者はいないだろう」と答え、嵊に挙義を強く勧め、兵を集めて城壁を修築した。
- 当時、邵陵王が東に逃れ銭唐に至り、この動きを聞いて嵊に板授で征東将軍・中二千石を加える使者を送った。嵊は「朝廷が危急存亡の折、天子が蒙塵している今、栄誉ある官号など受ける気になれない」と述べ、辞令だけを留め置いた。
- 賊の行台劉神茂が義興を攻め落とし、使者を送って嵊に「早く降伏すれば郡はそのまま治めさせ、さらに爵位・恩賞を加える」と説かせたが、嵊はその使者を斬らせ、さらに軍主王雄らに兵を率いさせ鱧瀆で迎撃し神茂を打ち破った。神茂は敗走した。侯景は神茂の敗北を聞き、中軍侯子鑒に精兵2万を率いさせ神茂を助けて嵊を攻めさせた。嵊は軍主范智朗に郡の西で迎撃させたが神茂に敗れて退却し、賊騎は勝ちに乗じて柵を焼き、柵内の軍はことごとく崩壊した。嵊は軍装を脱ぎ聴事の座に着いた。賊は刃を突きつけたが終始屈服せず、捕らえられて侯景のもとへ送られ、都市で処刑された。子弟で同時に殺害された者は十余人、時に62歳であった。賊平定後、世祖は侍中・中衛将軍・開府儀同三司を追贈し、忠貞と諡した。