出自と経歴
- 江子一、字元貞、済陽考城の人。晋の散騎常侍江統の7世孫。父江法成は天監中に奉朝請となった。子一は若くして学を好み志操があり、家が貧しく食に事欠いたため一生蔬食を通した。王国侍郎として起用され朝請となり、秘閣の書を閲覧したいと願い出て高祖の許可を得、勅により華林省に直宿した。姑の夫である右衛将軍朱异は権勢を握っており、参内の休みの日には賓客が門前に集まったが、子一は一度もその門を訪れることがなく、その高潔さはこの通りであった。
- 累進して尚書儀曹郎となり、出向して遂昌・曲阿の令となり、いずれも治績で知られた。通直散騎侍郎に任じられ、出向して戎昭将軍・南津校尉となった。弟の江子四は尚書金部郎を歴任し、大同初年に右丞に遷った。兄弟は共に性格が剛烈であった。子四は右丞として上封事し、施政の得失を極言し、高祖はこれを大いに評価して尚書に詳細な検討と実施を命じた。左民郎沈烱・少府丞顧璵がかつて奏事の内容を許可されず、高祖が厳しい顔で叱責した際、子四は進み出て烱らのために激しく弁論した。高祖が怒って縛るよう命じたが、子四は地に伏して受けず、高祖の怒りもやみ、結局許されたものの座に連坐して免職となった。
- 侯景が反乱を起こし歴陽を陥落させ横江から渡河しようとした際、子一は水軍千余人を率いて下流でこれを迎撃しようとしたが、副将董桃生の一族が江北にいたため、その配下と共に逃走してしまった。子一はやむなく南洲に退き、残った軍勢を集め歩いて京師へ赴いた。賊も間もなく到着し、子一は太宗に「賊の包囲がまだ固まっていない今なら出撃できます。営柵が完成すれば手の出しようがなくなります。弟の子四・子五とともに部下100余人を率い承明門を開いて挑発したい」と上奏し許可を得た。子一は自ら士卒の先頭に立ち矛を取って単身突進、従う者は誰も続くことができなかった。子四・子五は事態が急迫するのを見て互いに助け合いながら賊中に踏み込み、ともに討ち死にした。
- 詔に「故戎昭将軍・通直散騎侍郎・南津校尉江子一、前尚書右丞江子四、東宮直殿主帥江子五は、忠烈のために名が知られ、その死を悼み特に旧例より重く扱う。子一に給事黄門侍郎、子四に中書侍郎、子五に散騎侍郎を贈るべし」とあった。侯景平定後、世祖はさらに子一に侍中を追贈し義子と諡し、子四に黄門侍郎を追贈し毅子と諡し、子五に中書侍郎を追贈し烈子と諡した。子一は『続黄図』および班固の『九品』にならった辞賦・文筆数十篇を著し世に行われた。