梁書卷四十二 列傳第三十六 傅岐

傅岐(字景平、北地霊州の人)。良吏の家系に生まれ、県令などを経て武帝に仕え中書舎人として機密の重責を担った。太清初年、朱异らが唱えた東魏との和議に独り異を唱え、これが侯景を離間させる策であると見抜いたが容れられず、まもなく侯景の乱が勃発した。乱中も侯景の欺瞞を見抜き続け、宮城陥落後まもなく病により自宅で没した。

年表(6件)
  • 太清元年547年累進して太僕・司農卿に至り、なお舎人を兼ねる
  • 太清2年548年東魏との和議に独り反対し、侯景への離間策であると見抜く
  • 太清3年549年中領軍に遷り、宣城王を人質に送ることに強く反対する
  • 太清3年549年侯景との盟約を独り疑い、まもなくその見通しが的中する
  • 太清3年549年功により南豊県侯への封を固辞する
  • 太清3年549年宮城陥落の混乱の中、病を押して包囲を脱出した後、自宅で卒去する

出自と経歴

  • 傅岐、字景平、北地霊州の人。高祖父傅弘仁は宋の太常、祖父傅琰は斉代に山陰令となり治績があり、県令から益州刺史に抜擢された。父傅翽は天監中に山陰・建康令を歴任し、これも良吏として知られ、官は驃騎諮議に至った。
  • 岐は初め国子明経生となり、南康王蕭宏の常侍として出仕、行参軍に遷り、尚書金部郎を兼ねた。母の喪に去職して喪に服し礼を尽くしたが、服喪明け後に病で長らく官を退いていた。この頃、北郊壇が改築されており、岐はその造営を監督し、完成後に如新令となった。
  • 県内で闘争により人を殴り殺した者があり、被害者の家が郡に訴えた。郡はその仇を捕らえ拷問を尽くしたが自白せず、獄を県に移した。岐は械を外させ穏やかに問うと、犯人は即座に自白し死罪に相当するとなった。冬至の節に際し、岐はその者を一時帰宅させ、節が過ぎたら戻るよう命じた。獄曹掾は「昔はそうした例もあったが今は行うべきでない」と強く諌めたが、岐は「もし約束に背けば、県令たる私が責を負う。心配するな」と答えた。犯人は期日通りに戻り、太守は深くこれに感嘆し、ただちにこの経緯を上聞した。
  • 岐が県を去る際、老若を問わず民が皆境まで出て拝送し、その泣き叫ぶ声は数十里に響いた。都に至り廷尉正を拝し、宮中に入り中書通事舎人を兼ね、寧遠岳陽王記室参軍に遷り、なお舎人を兼ねた。出向して建康令となったが公事により免ぜられ、まもなく再び舎人となった。累進して安西中記室・鎮南諮議参軍となり、なお舎人を兼ねた。岐は容姿優れ、博学で対応に長けた。大同中、魏と和親した際、その使者が年に再三来訪する度、岐が接待にあたった。
  • 太清元年(547年)、累進して太僕・司農卿に至り、なお舎人を兼ねた。禁省に10余年在職し、機密の重責は朱异に次ぐものであった。この年冬、豫州刺史貞陽侯蕭淵明が兵を率いて彭城を討伐したが敗れ魏に降った。太清2年(548年)、淵明が使者を遣わし魏側が改めて和好を求めていると伝えてきた。詔により有司と近臣が協議し、左衛朱异は「高澄の意図はやはり友好を継続し、以前の和議を破らないことだろう。国境が安定し戦乱が収まり民を休ませることこそ得策だ」と述べ、議者はみな同調した。
  • しかし岐だけは「高澄は権力を得たばかりで、その勢いは決して弱くない。何故和議を必要とするのか。これは離間策に違いなく、貞陽侯に使者を送らせて侯景に疑念を抱かせ、貞陽と交換に景を差し出させようとしているのだ。景は不安に思い必ず禍乱を企むだろう。もし今澄との和議を許せば、まさにその術中に陥る。しかも彭城は昨年敗戦し渦陽も新たに敗退したばかり、ここで和議に応じれば国家の弱さを示すだけだ。私見では、この和議は許すべきでない」と異を唱えた。朱异らはなお固執し、高祖はついに异の議に従った。
  • 和議の使者を送ったところ、侯景は果たしてこの疑いを抱いた。度々使者の召還を求める上奏をしたが、詔は曖昧な返答に終始した。8月に至り景は挙兵して反乱を起こし、10月に京師に侵攻して朱异の誅殺を求めた。
  • 太清3年(549年)、岐は中領軍に遷り、なお舎人を兼ねた。2月、景は闕前で上表し、江右四州の割譲と部下の安堵を条件に囲みを解いて鎮所に戻ると申し出、詔でこれを許した。城西で盟約を結ぶにあたり宣城王の護送が求められたが、岐は「宣城王は嫡嗣の重い身分であり、遣わすべきでない」と強く反対した。結局石城公蕭大款が代わりに送られ、景との盟約が成立すると、城中の文武官は喜び躍り囲みが解けることを期待した。
  • しかし岐は独り衆に向かい「賊が兵を挙げて反逆し、まだ目的を遂げぬまま和を求めている。夷狄の情、獣のような心は決して信用できぬ。この和議も結局は賊に欺かれるだけだ」と述べた。人々は皆これを怨み怪しんだが、景が盟約を破ると、誰もが岐の見通しに感服した。まもなく岐の功労により南豊県侯に封じ食邑500戸を与える詔が下ったが、岐は固辞して受けなかった。宮城が陥落すると、岐は病を押して包囲を脱出したが、まもなく自宅で卒去した。

史論

  • 陳の吏部尚書姚察は評す。事を興すには謀が定まって初めて万挙して誤りが無い、との言葉は真実である。傅岐が斉の偽りの和議を見抜いたのは、まさに謀事に長けた証左と言えよう。もしあの時、岐の議を採用していれば、太清の禍乱はそもそも起こらなかったはずだ。申子の「一言が天下を左右する」との言葉は、まさにこのことを指すのだろう。