梁書卷四十一 列𫝊第三十五 褚翔
褚翔、字は世挙。河南陽翟の人で、斉の功臣褚淵の曽孫。父の向も高祖に仕えた官僚。翔自身は文才に優れ即興の詩作で高祖に驚嘆され、義興太守として善政を挙げた孝子でもあった。太清二年(548年)侯景の籠城中に母の喪に遭い、悲しみのあまり卒した。享年四十四。
出自と父・向
- 褚翔、字は世挙。河南陽翟の人。曽祖の淵は斉の太宰・文簡公として建国の功臣であった。祖の蓁は太常穆子、父の向は字を景政といい、数歳で父母を相次いで失い、成人のように悲哀を尽くし、親戚もみなこれを異とした。
- 向は成長ののち閑雅な人柄と器量を備え、高祖の即位に際し国子生に選ばれ、秘書郎から起家し、太子舎人・尚書殿中郎を歴任し、安成内史として出て、太子洗馬・中舎人・太尉従事中郎・黄門侍郎・鎮右豫章王長史を歴任し、まもなく長兼侍中に入った。向は容姿端麗で眉目秀麗であり、朝廷に出るたびに人々に仰ぎ見られた。
- 大通四年、寧遠将軍・北中郎廬陵王長史として出たが、三年ののち任地で卒した。外兄の謝挙が墓銘を製し、その概略に「弘治(王祥)の才を推し、子嵩(王衍)の器量に恥じ入る、酒を月下に酌み、琴を清風に論ず」とあり、世はこれを名文と評した。
経歴
- 翔は初め国子生として高第に及第し、父の喪に服して喪明け後に秘書郎を除せられ、太子舎人・宣城王主簿に累遷した。
- 中大通五年(533年)高祖が楽游苑で群臣を宴し、翔と王訓に特別に二十韻の詩を三刻の限りで作らせると、翔はその場で詩を奉り、高祖はこれを驚嘆した。即日、宣城王文学に転じ、まもなく友(王府の相談役)に遷った。当時、宣城王府の友・文学の位は他の王府より二等高く定められていたため、翔がそれを超えて任じられたことを世は美談とした。
- 義興太守として出て、政治は清廉で煩雑な施策を省き浮費を除いたので百姓は安んじた。郡の西亭には古木が長年枯れていたが、翔が着任すると再び枝葉を生じ、百姓はみな善政の感応だと信じた。任期満了に及び吏民は闕に赴いてその留任を願い、勅許された。
- まもなく吏部郎に召され、去るときには郡の百姓が老いも若きも国境まで見送り涙を流して別れを惜しんだ。翔は小選(下級官吏の人事)を司ったが公正で不正な依頼を受けず、「平允」と称された。まもなく侍中に遷り、散騎常侍・領羽林監に転じて東宮に侍し、晋陵太守として出たが、着任一年足らずで公事により免ぜられた。まもなくふたたび散騎常侍として東宮に侍した。
- 太清二年(548年)守吏部尚書に遷った。その年の冬、侯景が宮城を包囲すると、翔は囲みの内で母の喪に遭い、悲哀のあまり卒した。享年四十四。詔により本官を追贈された。
- 翔は若くして孝心が篤く、侍中であったとき母の病が篤くなり沙門を招いて祈祷させると、夜半に戸外に異光を見、空中に指を鳴らす音を聞き、明け方に病が癒えた。人々は翔の誠が通じたものと考えた。