梁書卷三十八 列傳第三十二 賀琛

出自と若年

賀琛、字は国宝。会稽山陰の人。伯父の賀㻛は歩兵校尉で当代随一の碩儒であった。琛は幼くして㻛から経業を授かり、一聞して義理に通じたため㻛はこれを異とし「この子は明経によって必ず貴くなる」と常々語った。㻛の死後、家は貧しく、諸暨に往復して粟を売買して生計を立てながら、閑を見つけては学問に励み、特に三礼に精通した。初め賀瑒が郷里で徒を集めて教授していたが、この頃には琛のもとに人が集まるようになった。普通中、刺史臨川王に招かれ祭酒従事史となり、初めて都に出た。高祖はその学識を聞き、文徳殿で引見して語らい、僕射徐勉に「琛には殊に家学の実がある」と語り、王国侍郎に補し、まもなく太学博士を兼ねさせ、中衛参軍事、尚書通事舎人として礼儀の事に参与させた。通直正員郎・舎人はそのまま、征西鄱陽王中録事・尚書左丞を兼ね、任期満了で正式に就任した。

詔により新諡法を撰し、今なお用いられている。皇太子が「大功の喪の末には子を元服させ娘を嫁がせてよいか」と議した際、琛は経文の解釈を精緻に論じて、大功の喪の末には自ら元服・婚姻することはできないが子の冠婚は行ってよいこと、小功の喪の末には自ら婚姻することもできることを論証し、また下殤の小功についてのみ結婚を控えるべき理由を、養育の情の厚薄・宗祧の継承の有無から説き明かした。その議論は精緻を極め、結局、朝廷は琛の議に従った。員外散騎常侍に遷った(旧例では尚書の南座に貂璫はなかったが、貂璫を用いる例は琛から始まった)。まもなく御史中丞に遷り礼儀の事に参与すること従前の通り、家産が豊かになり主の邸宅を買って自邸としたことを有司に咎められ免官となったが、まもなく尚書左丞に復し、給事黄門侍郎・兼国子博士に遷ったが未拝のまま通直散騎常侍・領尚書左丞に改まり、ともに礼儀の事に参与した。琛は前後の在職中、郊廟の諸儀の多くを新たに定めた。高祖と語るたびに時を忘れるほどで、宮中では「上殿すればなかなか下りぬは賀雅」と評され、琛の立ち居振る舞いが上品なのでこう呼ばれた。散騎常侍に遷り礼儀の事はそのままとした。

四事を封奏す

この頃、高祖の任用する者はみな追従にふけり時政を害していたため、琛は事を条にして封奏した。要旨は次の通り。

  • 第一事――北辺は服属し軍備も一段落し、まさに民を休ませ教化すべき時であるのに、天下の戸口が減少している。地方では郡が州の統制に堪えず、県が郡の収奪に堪えず、ただ徴税に追われる有様で、百姓は逃散して大姓に身を寄せたり屯封に集まったりしている。これは牧守の過ちであり、また使者の往来が頻繁で郷里を騒がせていることも一因である。無能な邑宰は豪強の搾取を黙認し、有能な長吏でさえ郡に手足を縛られ、業績を上げられないでいる。
  • 第二事――聖主の民を憐れむ心は隅々にまで及んでいるのに、州郡には民を恤む志がない。奢侈の風潮が甚だしく、宴席では山のごとく贅を尽くし、一度の宴で数家の財産に相当する費用を費やしながら、それを恥じるどころか出費の少なさを悔やむ有様である。歌姫・舞女にも定めの品級があったのに今は身分に関わらず贅を競い、そのために吏民は搾取に走る。厳しく禁制を定め、質素倹約を導くべきである。
  • 第三事――陛下は昼夜を分かたず政務に励み、百官の奏事にすべて自ら目を通しておられるが、無能な小人が奏事を機に功を求めて競い、国の大局を顧みずに枝葉末節をあげつらい、苛察をもって功とし、公事を口実に威福を私している。公平を求める心を糺し、讒言・愚見を退けるべきである。
  • 第四事――北伐以来、国庫は空虚であるのに、天下無事の今も出費が絶えない。国が疲弊すれば事を省き費えを減らすべきで、事が省かれれば民は養われ、費えが息めば財は蓄えられる。京師の官署・邸店から地方の屯・伝・邸に至るまで無用のものは廃し、無益な徴発・召集を止め、民を休ませ財を蓄えるべきである。今この機を逃せば、事が起きてから図っても間に合わない。

高祖の反論と結末

上奏を見た高祖は激怒し、主書を呼んで口授し、琛を厳しく責める勅を下した。要旨は次の通り。40余年天下を治めてきた自分にも上書で述べられた事情は先刻承知であり、実行しようとしても紛擾に阻まれてきた。琛は要職にありながら具体名を挙げず抽象論に終始している。第一事について「使者は誰か、貪残の刺史・太守・長吏は誰か、廉平で掣肘された者は誰か」と具体名を求め、第二事の奢侈についても自らの質素な生活(30余年女色を断ち、質素な住まい、一日一食)を挙げて反論し、功徳事業への支出も無駄ではなく民・国・自身の三者に利があると弁明した。第三事についても「吹毛求疵する者、繩逐する者とは誰か」と名指しを求め、奏事を止めれば専権の弊が生じ、秦の趙高や漢の王莽の例のようになると説いた。第四事についても、廃すべき官署・屯伝の具体名を挙げるよう求め、抽象論だけでは朝廷を欺くに等しいと断じた。総じて、具体的な人名・事例を挙げずに一般論を並べるだけでは政治は改まらない、との厳しい叱責であった。琛は勅を受けて謝罪するのみで、以後は具体的な指摘を行わなかった。

久しくして太府卿に遷り、太清2年、雲騎将軍・中軍宣城王長史となった。侯景が挙兵して京師を襲うと、王は台内に移り、琛は司馬楊曒とともに東府に留め置かれたが、賊がまもなく城を陥落させ兵を放って殺戮する中、琛も槍で深手を負いながら死に至らず、賊に捕らえられて闕下に送られた。僕射王克・領軍朱异に城門を開いて賊を迎え入れるよう勧めたが、克らは涙ながらにこれを拒んだ。賊は琛を荘厳寺に送って治療させ、翌年台城が陥落すると琛は郷里に逃れ帰った。その年冬、賊が会稽に進攻すると再び琛は捕らえられて都に送られ、金紫光禄大夫とされた。後に病を得て69歳で卒した。琛の撰した三礼講疏・五経滞義および諸儀法は合わせて百余篇に及んだ。子の詡は太清初め、儀同西昌侯掾から巴山太守として出たが、任地で乱に遭い没した。

史論

陳の吏部尚書姚察曰く――夏侯勝はかつて「士は経術に明るくないことを患うべきで、経術に明るければ官位を得るのは容易だ」と言った。朱异・賀琛はともに微賤の身から興り、経術によって時流に乗り高位に至った点でこの言葉通りである。しかし异は寵幸に取り入って権を握りながら、道をもって君を輔けず、ただ媚びへつらって取り入り、ついには寇を招いて国を敗るに至った。その罪は明らかにされず、死後もなお破格の贈官を受け、罰も与えられず賞も濫れた。これでは臣下を勧め戒める道が失われる。君子はこれによって太清の乱がなぜ起きたかを知るべきであろう。