梁書卷三十六 列傳第三十 江革

出自と若年

江革、字は休映。済陽考城の人。祖父の斉之は宋の尚書金部郎、父の柔之は斉の尚書倉部郎で孝行の聞こえがあり、母の喪に服して亡くなった。革は幼くして聡敏、早くから才思があり、6歳で文を作り、柔之は「この子は必ず我が家を興す」と賞した。9歳で父を失い、弟の観と孤貧の中、師友もなく兄弟で互いに学び合った。16歳で母を失い、孝行で知られた。喪が明けると観とともに太学に入り国子生となり、高第に挙げられた。斉の中書郎王融・吏部謝朓に深く重んじられ、朓が宿衛から戻る途中に立ち寄った際、大雪の中、革が破れた綿入れと単衣の敷物で学問に耽っているのを見て嘆じ、着ていた襦を脱ぎ、自ら氈を半分に割いて革の寝具に与えて去った。

司徒竟陵王がその名を聞いて西邸学士に招いた。弱冠で南徐州秀才に挙げられた際、豫章の胡諧之が州事を代行しており、王融が諧之に書を送って革を薦め、諧之はちょうど琅邪の王汎を推薦するところであったが、革に代えた。奉朝請から出仕し、僕射江祏に深く引き立てられた。祏が太子詹事になると革を府丞に啓した。祏は当時権勢を朝廷に振るい、革を国政に堪える人材として機務に参与させ、詔誥文檄はすべて彼に委ねられたが、革は形跡を避けて外部に漏らさなかった。祏が誅せられた際、賓客はみな連座したが、革だけは知恵で免れた。

地方官・武人としての活躍

尚書駕部郎中に除せられ、興元年、高祖が石頭に入った時、呉興太守袁昻が郡に拠って義師に抗していたが、革に昻への書を作らせると、その場で立ちどころに書き上げ、辞義は典雅であった。高祖は深く賞歎し、以後徐勉とともに書記を掌らせた。建安王が雍州刺史となり管記を求めた際、革を征北記室参軍・中廬令とした。弟の観と離れがたく同行を求め、観は征北行参軍兼記室となったが、赴任の途上、江夏で観は病没した。呉興の沈約・楽安の任昉に重んじられ、昉は革への書で「雍府の妙選たる英才、文書の職を兄弟で担い、まさに二龍を長途に馭し、騏驥を千里に馳せるようだ」と称えた。

雍州の府王が徴されて丹陽尹となると、革は記室として五官掾を領した。通直散騎常侍・建康正から秣陵・建康令に転じ、治は明粛で豪強を憚らせた。中書舎人・尚書左丞・司農卿を経て、雲麾晋安王長史・尋陽太守・行江州府事として出、さらに仁威廬陵王長史・太守・行事となり、清厳さで諸城に恐れられた。年少の王の府事が籤帥に傾きがちであった中、革は正直に自らを持し、籤帥らと同席しなかった。左光禄大夫・南平王長史・御史中丞に遷り、権勢を弾劾して憚らず、少府卿を経て貞威将軍・北中郎南康王長史・広陵太守として出、さらに鎮北豫章王長史・将軍・太守となった。

魏の徐州刺史元法僧が降ってきた際、革は府王に従って彭城を鎮したが、城が陥落し、革は馬に不慣れなため舟で退こうとして下邳で魏軍に捕らえられた。魏の徐州刺史元延明は革の名声を聞き厚遇したが、革は脚気と称して拝礼せず、延明が害を加えようとしても言辞・態度が厳正で、かえって敬重された。同時に捕らえられていた祖暅に延明が欹器・漏刻の銘を作らせると、革は「卿は国の厚恩を受けながら報いず、いま虜のために銘を作るとは朝廷に背く」と罵った。延明はこれを聞き、革に丈八寺碑と祭彭祖文を作らせようとしたが、革は囚われて久しく心が乱れていると辞退した。延明が責め立てて杖罰を加えようとすると、革は「江革、齢60、身をもって主に報いることはできぬが、今日死ねば本望、断じて虜のために筆を執らぬ」と厳しく言い放った。延明は屈しないと知って責めをやめ、日に脱粟3升のみを給して命をつないだ。魏主が中山王元略の反乱を討った際の恩赦で北から放たれ、祖暅とともに帰朝した。

詔して、前貞威将軍・鎮北長史・広陵太守江革の才思・忠節・危難に屈しなかった気節を称え、太尉臨川王長史に任じた。高祖が仏教に篤く、朝臣の多くが受戒を願い出た頃、革も密かに因果を信じていたが、高祖はそれを知らず不信心と思い、革に「覚意詩」五百字を賜って「ただ精進に努め、修行に励むべきで、死を覚悟した囚人のようであってはならない」と説き、諸貴族にも示した上、さらに手勅で「因果応報を信じねばならない、元延明に対峙した時のように意固地であってよいのか」と諭した。革はこれに応じて菩薩戒を受けたいと啓上した。

少府卿・長史校尉に復した頃、東州にいた武陵王が驕縦になっていたため、高祖は革に「武陵王は若く、臧盾は気が弱く匡正できない、卿に代行させたい、卿でなければならぬ、辞退は許さぬ」と勅し、折衝将軍・東中郎武陵王長史・会稽郡丞・行府州事とした。革の門生・故吏は東州に多く、出迎えようとしたが、革は「私は一切贈り物を受け取らない、故人の贈物だけを特別扱いすることはできない」と言い、赴任後は公俸のみで質素な食事に甘んじた。郡は繁華で日に数百件の訴訟があったが、革は迷いなく裁断し、功には必ず賞し過には必ず罰したため、民は安んじ吏は畏れ、諸城が震え上がった。琅邪の王騫は山陰令として不正な蓄財をしていたが、その威風を聞いて自ら官を辞した。府王は革を憚りつつも深く敬重し、宴席では常に詩書を語り合ったため、王は学問と文を好むようになった。典籤沈熾文が王の作った詩を高祖に献じると、高祖は徐勉に「江革は果たして職に相応しい」と語り、都官尚書に任じた。離任の際、民はみな惜しみ、贈り物を送ろうとしたが革は一切受けなかった。慣例で送別の舟が用意されても受け取らず、官給の舟一艘のみに乗ったが、その舟は傾いて安眠できなかった。誰かが「舟が傾いて危険だ、重い物を積んで軽い舟を安定させるべきだ」と言うと、革は他に持ち物がなく、西陵の岸で石を十数個拾って積んだという。その清貧はこのようであった。

呉郡を監した頃、境内は荒廃し盗賊が横行していたが、革の手元には護衛20人しかいなかった。百姓は恐れ、遊軍の尉を送っても民はさらに恐れたが、革は恩恵を広く施し制令を明らかにして盗賊を鎮め、民吏を安んじた。武陵王が江州に出鎮する際、「江革の文華清麗を一日たりとも忘れられない、共に栄達を分かちたい」と言って革を同行の表に挙げ、明威将軍・南中郎長史・尋陽太守に任じた。都に召されて度支尚書となり、後進を奨励し名声を高めたため、士大夫の子弟がこぞって彼に帰した。尚書令何敬容が人事を掌った際、選任に不適格な者が多く、革は性が剛直で朝宴のたびに褒貶を口にしたため権勢に疎まれ、病と称して退官した。光禄大夫・領歩兵校尉・南北兖二州大中正となり、悠々自適に文酒を楽しんだ。

晩年と一族

大同元年2月に卒し、諡を彊子とした。文集20巻が世に行われた。革は8府の長史、4王の行事を歴任し、2度二千石(郡太守)となったが、側女もなく家は壁が立つのみの清貧であり、世にそれを高く評価された。長子の行敏は学を好み才俊があり、通直郎に至って早世し、文集5巻がある。次子の従簡は若くして文才があり、17歳で「採荷詞」を作って何敬容を風刺し、当時称賛された。司徒従事中郎を歴任したが、侯景の乱で任約に害され、その子の兼は父の命に代わろうと叩頭して血を流し、身をもって刃を防いだが、ともに殺された。天下の人々はみな痛惜した。

史論

史臣曰く――高祖は政道に心を留め、孔休源は治世を見抜く識見によって知遇を得た。まさに時を得たと言えよう。江革は聡敏亮直、これもまた一代の盛名であった。