梁書卷三十五 列𫝊第二十九 蕭子雲

出自と経歴

  • 字景喬。子恪の第九弟。12歳、斉の建武四年(497年)新浦県侯に封ぜられ、自ら拝章の文を作り早くも文才を見せた。天監初、爵を降されて子となる。成長すると学問に励み、晋代について通史がないことを憂い、弱冠より撰述に心を寄せ、26歳で書を完成させて奏上、詔により秘閣に収められた。子雲は性格が沈静で仕進を好まず、30歳になってようやく秘書郎として出仕、太子舎人に遷り『東宮新記』を撰して奏上、勅により束帛を賜った。
  • 北中郎外兵参軍・晋安王文学・司徒主簿・丹陽尹丞を歴任。当時、湘東王(蕭繹)が丹陽尹(京尹)であり、深く子雲を賞し布衣の交わりのように親しんだ。北中郎廬陵王諮議参軍を経て尚書左丞を兼ねる。大通元年(527年)黄門郎に除せられ、まもなく軽車将軍・司徒左長史を兼ねる。二年(528年)吏部に入る。三年(529年)長兼侍中に遷る。中大通元年(529年)太府卿に転じる。三年(531年)貞威将軍・臨川内史として出向、治政は和やかで理にかない民吏に喜ばれた。還って散騎常侍、まもなく再び侍中。大同二年(536年)員外散騎常侍・国子祭酒・領南徐州大中正に遷り、まもなく再び侍中・祭酒・中正はそのまま。
  • 梁初、郊廟の祭祀はまだ牲牷(供犠の制度)が改まっておらず、楽辞は沈約が撰したものをそのまま用いていた。子雲は改定を建言し、上表して「兼職として斉の官(前代の楽官)を務めた際、伶人が旧制のままの牲牷未改の楽辞を歌うのを見た。制度と実情が食い違っているのではないかと疑うが、改定すべきか」と伺いを立てた。勅答には「これは担当者が旧習に固執しているだけだ、急ぎ改めよ」とあり、子雲に改定を命じ、さらに「郊廟の歌辞は経書の言葉を用いるべきで、諸子・史書の語を雑えてはならない。文章が浅薄で、沈約の撰にも誤りが多い」との勅が下った。
  • 子雲は答えて「殷代の祭祀・饗宴の楽は雅名にふさわしく本来五経に採るべきだが、漢代以来の制作は経典を全く用いておらず、沈約の撰はさらに浅く雑然としている。以前改めた10曲も、牲牷がすでに改まったことで歌辞も改めるべきと知りながら旧例を踏襲していたことを恥じる。今、勅旨により悟るところがあった」と述べ、五経を本として爾雅・周易・尚書・大戴礼も兼ね用いる方針を示し、また唐虞や殷頌・周雅の先例を引きつつ、梁朝独自の武功・文治の事績も頌えるべきであり、沈約の作は聖徳を称えるのみで梁朝の制作事業を叙していない点で体裁を欠くと論じ、改訂案を撰して上呈し施行された。
  • 子雲は草書・隷書に優れ世の手本とされた。自ら鍾繇・王羲之に倣いつつ字体をわずかに変えたと述べ、勅答では「昔は世の好尚に従うのみであったが、王献之の書法に長年倣ってきた。26歳のとき著した『晋史』の「二王列伝」で草隷の筆法を論じようとしたが意を尽くせず未完に終わり、飛白の一勢のみを論じるにとどめた。ここ十数年、勅撰の『論書』一巻に接し、筆勢・字体を精密に論じたものを見て、王羲之が鍾繇に及ばぬのはなお王献之が王羲之に及ばぬのと同じと悟り、以来隷式を研究し王献之風から全く鍾繇に範を取るよう改め、以後自ら進境を感じている」と述べた。その書は高祖に重んじられ、高祖はかつて子雲の書を評して「筆力は勁く駿やか、心と手が相応じ、巧みさは杜度を超え、美しさは崔寔にまさる。まさに鍾繇と並び先を争うべきだ」と述べた。
  • 大同七年(541年)、仁威将軍・東陽太守として出向。中大同元年(546年)還って宗正卿を拝命。太清元年(547年)再び侍中・国子祭酒・領南徐州大中正。二年(548年)侯景の侵攻が迫り、子雲は民間に身を隠した。三年(549年)3月、宮城陥落を受けて東の晋陵に逃れたが、飢えて顕霊寺の僧房で卒去、享年62。著書は『晋書』110巻・『東宮新記』20巻。第二子の特、字世達は早くから知られ草隷を能くし、高祖はかつて子雲に「王献之の書は王羲之に及ばぬが、近ごろ特の書跡を見るに、そなたに迫るものがある」と語った。著作佐郎・太子舎人・宣恵主簿・中軍記室を歴任、海塩令として出向したが事件に連座して免官、享年25で父子雲に先立って卒した。