出自と経歴
- 字孝卿。纉の第四弟。国子生から射策で高第となり、長兼秘書郎から出仕。太子舎人・洗馬・中舎人を歴任し記室を掌った。中書郎・国子博士を経て北中郎長史・蘭陵太守に出向、還って員外散騎常侍。丹陽尹の西昌侯蕭淵藻が長患いで拝命できずにいた際、綰が権知尹事を務めた。中軍宣城王長史、まもなく御史中丞に転じた。高祖は弟の中書舎人絢を遣わして「国事の要は法の執行にある。人材登用は必ずしも官位の高低に限らない。晋宋の世には周閔・蔡廓も侍中の地位でこれを務めた。左遷と疑うな」と伝えさせた。当時宣城王府が重んじられていたための配慮であった。
- 大同4年(538年)元日、旧制では僕射と中丞の座位は東西に相対する。当時綰の兄纉が僕射であったため、百官が並ぶ中、兄弟がそれぞれ前駆を連ねて左右両陛下に進む様は前代に例がなく、人々はこれを栄誉とした。翌年、豫章内史として出向し、郡で『制旨礼記正義』を講義し、士族の子弟数百人が聴講した。
- 8年(542年)、安成の劉敬躬が妖術を用いて党を集め郡を攻め、内史蕭侻は城を捨てて逃げた。賊は南康・廬陵に転じて県邑を破り、数万の衆を擁して豫章新淦県に迫った。この地は久しく戦乱を経験しておらず吏民は動揺し逃げ散り、綰に難を避けるよう勧める者もあったが従わず、城壁を修めて防備を固め、募兵1万余を集めた。刺史湘東王は司馬王僧弁に討伐させ、綰の指揮下でひと月ほどのうちに賊党をことごとく平定した。10年(544年)、再び御史中丞・通直散騎常侍となり、弾劾は権門にも遠慮せず、人々はこれを憚った。
- 当時、城西に士林館が置かれ学者が集まり、綰は右衛の朱异・太府卿の賀琛と交代で『制旨礼記中庸義』を講述した。太清2年(548年)、左衛将軍に昇進し、侯景の乱に際して東掖門の守備にあたった。3年(549年)、吏部尚書。都城陥落後、綰は脱出して江陵へ逃れ、湘東王(承制)は侍中・左衛将軍・相国長史・侍中を授け、持節雲麾将軍・湘東内史として出向させた。承聖2年(553年)、尚書右僕射に召されまもなく侍中を加えられた。翌年、江陵が陥落し朝臣の多くは関中へ連行されたが、綰は病により免れた。後に江陵で卒去、享年63。次子の交、字少游は文学に通じ、太宗の第十一女安陽公主に娶り、承聖2年、太子洗馬・秘書丞に至り東宮の管記を掌った。
史論
- 陳の吏部尚書姚察は評す。太清の乱世に親族が離反する中、纉は融和することができず、藩鎮の重鎮(湘東王)に対し私怨から瀟湘の地で確執を構えた。これは忠節によるものではなく、後の江陵陥落の禍もここに端を発したものである。纉の風格をもってしても、結局は梁の乱の一因となってしまったことは惜しむべきである。