出自と若年
- 王僧孺は字を僧孺といい、東海郯の人である。魏の衛將軍・王粛の八代孫で、曾祖の雅は晉の左光禄大夫儀同三司、祖の准は宋の司徒左長史。僧孺は5歳で『孝經』を読み、教授者が「この書は忠と孝の二事を論じたものだ」と述べると「そうであれば常に読みたい」と答えたという。6歳で文をよくし、長じて学を好んだが家貧しく常に人の書写を請け負って母を養い、写し終えるとそらんじて理解した。
- 斉に仕え王國左常侍・太學博士として起家。尚書僕射王晏は深く彼を認め、晏が丹陽尹となると郡功曹に召し補し東宮新記を撰させた。大司馬豫章王行參軍に遷り太學博士を兼ね、司徒竟陵王子良が西邸を開いて文学の士を招くと僧孺もこれに遊んだ。文惠太子はその名を聞き東宮に召し崇明殿に直させ側近にしようとしたが太子が薨じて果たさなかった。時に王晏の子・德元が晉安郡に出ると僧孺は郡丞に補せられ、候官令に除せられた。建武初、詔により士を挙げることとなり、揚州刺史始安王遙光が秘書丞王暕とともに僧孺を表薦し「前候官令東海王僧孺、年35、質朴を尚び思考は悟りが速く、筆で身を養い書写で学を成した、蛍雪の労を重ね、先言往行や人物雅俗、甘泉の遺儀・南宮の故事にも通じ、机上で述べることができる、鼮鼠の弁も竹書の誤りもなく、質疑に応じて休まぬ」と称えた。
南海太守としての清廉と文才
- 尚書儀曹郎に除せられ治書侍御史に遷り、出でて唐令となる。かつて僧孺は楽安の任昉と竟陵王西邸で文学の交わりを結んでおり、唐への赴任に際し昉は詩を贈り、その才を高く評価する言葉を寄せた。
- 天監初め臨川王後軍記室參軍に除せられ文徳省に待詔、まもなく出でて南海太守となる。郡には高涼から生口(奴隷)や海舶が毎年数多く至り外国商人と交易するのが常で、旧来州郡は半価で買い占めさらに転売して数倍の利を得ることが慣例となっていたが、僧孺は「昔の人は蜀部長史を務めても終身蜀の物を持ち帰らなかった、私が子孫に遺したいものは越の財貨ではない」と嘆じ、いっさい取らなかった。任期一年で召還の詔が下ると、郡民・道俗600人が闕に詣で留任を乞うたが許されなかった。都に至ると中書郎領著作を拝し、また文徳省に直し中表簿・起居注を撰し、尚書左丞領著作に遷る。まもなく游擊將軍兼御史中丞に除せられた。
- 僧孺は幼くして貧しく、母は紗布を売って生計を立て、かつて僧孺を連れて市に赴いた際、中丞の鹵簿(儀仗行列)に道を追われて溝に避けたことがあったが、この日拝命し騶(先導)を引いて道を清めることとなり、悲感に堪えなかった。まもなく公事により雲騎將軍に降格されたが職はもとのまま、まもなく実職に転じた。この時高祖が「春景明志詩」五百字を製し、朝臣の沈約以下に同作を命じたところ、高祖は僧孺の詩を工みと評し少府卿に遷した。出でて呉郡を監し、還って尚書吏部郎に除せられ大選(人事)に参画したが請託を通さなかった。
讒訴による免官と友人への書
- 出でて仁威南康王長史として府州國事を行った。王の典籤・湯道愍が王に取り入り府内を専断し、僧孺がたびたびこれを裁抑したため道愍は讒訴し、僧孺は南司(御史台)に召されることとなり、牋を府に奉って辞し、自らを罻羅(網)にかかった小鳥に喩え、恩顧に報いられぬ悔恨と、免官への諦観を述べた。僧孺は坐して免官され、久しく官に就けなかった。
- 友人の廬江・何炯はなお王府記室であったが、僧孺は書を送りその心境を吐露した。書中では、別離の悲しみに始まり、免官後の困窮・病(癲眩・消渴)・世間からの疎外・貧窮の身の上を長く述べ、自らの文才を「章句小才・蟲篆末藝」に過ぎぬと卑下しつつも、無実の讒によって免ぜられたことへの深い怨みと、士友の情誼を慕う思いを縷々綴り、最後に「垢累あっても寸札を存する限り、たとえ先に世を去ろうとも松喬(仙人)のごとくありたい」と結んだ。
晩年と著作
- のち安西安成王參軍として起用され、累遷して鎮右始興王中記室・北中郎南康王諮議參軍となり、入りて西省に直し撰譜事を知った。普通3年卒去、時に58歳。僧孺は書物を好み蔵書は万余巻に及び、多くが異本で、沈約・任昉の家の蔵書と並び称された。若くして学に篤く書物を精力的に渉猟し見ないものはなく、その文章は麗逸で新事を多く用い人の未見のものが多く、世はその富を重んじた。『十八州譜』710巻、『百家譜集』15巻、『東南譜集抄』10巻、文集30巻を撰し、両台弾事は集に入れず5巻とし、また『東宮新記』とともに世に行われた。