梁書卷三十三 列傳第二十七 張率

若年の文才と任昉との交わり

  • 張率は字を士簡といい、呉郡呉の人である。祖の永は宋の右光禄大夫、父の瓌は斉世に顕貴で郷邑に帰老した。天監初め右光禄を授けられ給事中を加えられた。率は12歳で文をよくし常に1日1篇の詩を課し、しだいに賦頌を作るようになり16歳で2千首近くに及んだ。斉の始安王蕭遙光が揚州で主簿に召したが就かず、著作佐郎として起家。建武3年秀才に挙げられ太子舍人に除せられ、同郡の陸倕と幼くして親しみ、ともに左衛將軍沈約を訪ねると任昉も居合わせ、約は昉に「この二子は後進の秀才、ともに南金である、卿は交わりを結ぶがよい」と述べ、これより昉と親交を結んだ。尚書殿中郎に遷り、出でて西中郎南康王功曹史となるも疾により就かず、のち太子洗馬に除せられ、高祖の霸府が建つと相國主簿に引かれた。
  • 天監初め臨川王以下に友學が置かれると率は鄱陽王友となり、司徒謝朏掾に遷り文徳省に直して待詔、敕により乙部の書を抄させられ、また婦人の事跡20余条を撰させ100巻に纏め、書に巧みな琅邪の王深・呉郡の范懐約・褚洵らに繕写させ後宮に給した。率はまた待詔の賦を作り甚だ称賞され、手敕で「賦を見たがすばらしい、司馬相如は巧みだが速さに欠け枚皋は速いが巧みでない、卿は二人を兼ね備えたと言えよう」と答えられた。また侍宴の賦詩では高祖が別に「東南に才子あり、故に能く官政に服す、余は古昔に慚づといえど、人を得ること今盛んなり」の詩を賜り、率とは数首の唱和が交わされた。
  • 秘書丞に遷り玉衡殿に引見されると、高祖は「秘書丞は天下の清官、東南の名門でこれに就いた者はまだいない、今は卿にふさわしい任として誉れとなろう」と語った。4年3月、華光殿で禊飲の際、河南國が舞馬を献上すると詔により率に賦を作らせ、龍馬の瑞祥と梁の威徳を頌える長大な賦を献じた。のち父の喪に去職、父の侍妓を巡り儀曹郎顧玩之が娶ろうとしたが妓が拒み出家した一件で率が姦通したと讒訴され、高祖はその才を惜しみ訴えを退けたが世論を招いた。服闋後久しく仕えなかったが、7年敕召により中権建安王中記室參軍に除せられた。
  • 8年、晉安王が石頭に出戍すると率は雲麾中記室となり、王が南兗州に遷ると宣毅諮議參軍に転じ記室を兼ね、王が還都すると率は中書侍郎に除せられた。13年、王が荊州となると復び宣惠諮議として江陵令を領し、府が江州に遷ると諮議領記室として豫章・臨川郡を監し、府にあること10年恩礼甚だ篤かった。還って太子僕に除せられ、累遷して招遠將軍・司徒右長史・揚州別駕となった。率は職務にありながら文書事務には無頓着で、別駕として奏事した際、高祖が牒を見て問うても答えず「事は牒中にあります」とだけ答え、高祖は不機嫌になった。まもなく太子家令に遷り中庶子陸倕・僕射劉孝綽とともに東宮管記を掌り、黄門侍郎に遷り出でて新安太守となる。任期を終え還都する途中、生母の喪に遭い、大通元年服が明けぬまま卒去、時に53歳。昭明太子は使者を遣わし賻を贈り、晉安王綱への令でその死を惜しんだ。
  • 率は酒を嗜み事事に寛恕で家事には特に無頓着であった。新安にあって家僮に米3千石を積んで呉の家に送らせたが、着くと半分以上が減っており、理由を問うと「雀鼠が食い荒らした」と答えたので、率は笑って「壮んなるかな雀鼠」と言い、それ以上追及しなかったという。若くして文を好み、『七略』『芸文志』に記録されながら今に伝わらない詩賦をことごとく補作した。著書に『文衡』15巻、文集30巻があり世に行われた。子の長公が跡を嗣いだ。