梁書卷二十九 列傳第二十三 邵陵攜王綸
邵陵攜王綸は字を世調といい、高祖(武帝)の第六子。聡頴で博学、文章・尺牘に巧みであったが性は険躁で罪により屢々黜せられた。侯景の乱では征討大都督として北討に赴くも大敗し、のち郢州で假黄鉞・都督中外諸軍事を称して兄弟間の不和を生じた。西魏の攻撃を受け、大寶2年(551年)汝南で捕らえられ屈せず殺害された。時に33歳。世祖は「攜」と追諡した。
年表(18件)
- 天監13年514年邵陵郡王に封じられ食邑2000戸を与えられる
- 天監18年519年信威將軍として召される
- 普通元年520年領石頭戍軍事となり、まもなく江州刺史となる
- 普通5年524年西中郞將として南兗州を権攝するも事に坐し免官・爵を奪われる
- 普通7年526年侍中に復す
- 大通元年527年爵を復され信威將軍を加えられる
- 中大通元年529年丹陽尹となる
- 中大通4年532年侍中・宣惠將軍・揚州刺史となる
- 大同元年535年侍中・雲麾將軍となる
- 大同7年541年使持節・都督郢定霍司四州諸軍事・郢州刺史となる
- 中大同元年546年鎭東將軍・南徐州刺史となる
- 太清2年548年中衛將軍・開府儀同三司に進み、征討大都督として侯景討伐に赴くも京口で大敗する
- 太清3年549年再び入援するが台城陥落、禹穴へ逃れる
- 大寶元年550年郢州に至り假黄鉞・都督中外諸軍事を称し百官を置く
- 大寶2年551年西魏の楊忠に汝南で捕らえられ屈せず殺害される。時に33歳
- 大同元年535年子の堅が汝南侯に封じられる
- 大同2年536年子の確が正階侯に封じられる
- 太清3年549年堅、書佐の内応により城が陥ち殺害される
出自と初期の官歴
- 邵陵攜王綸は字を世調といい、高祖の第六子である。若くして聡頴で博学、文章と尺牘に巧みであった。天監13年(514年)邵陵郡王に封じられ食邑2000戸、寧逺將軍・琅邪彭城二郡太守、輕車將軍・會稽太守に遷り、18年(519年)信威將軍として召された。
- 普通元年(520年)領石頭戍軍事、まもなく江州刺史。普通5年(524年)西中郞將として南兗州を権攝したが事に坐して免官・爵を奪われた。7年(526年)侍中に復し、大通元年(527年)爵を復し信威將軍を加え置佐史。中大通元年(529年)丹陽尹、4年(532年)侍中・宣惠將軍・揚州刺史となる。
- この頃、細民を侵漁したことを少府丞の何智通が上聞しようとしたため、綸はこれを知り客の戴子髙に命じて都巷で智通を刺殺させた。智通の子が闕下に訴え、高祖は綸邸を囲んで子髙を捕らえさせたが、綸がこれを匿い出さなかったため免じられ庶人となった。まもなく再び爵を封じられた。
太清の乱での北討・後の紛擾
- 大同元年(535年)侍中・雲麾將軍、7年(541年)使持節・都督郢定霍司四州諸軍事・平西將軍・郢州刺史、のち安前將軍・丹陽尹に遷る。中大同元年(546年)鎭東將軍・南徐州刺史、太清2年(548年)中衛將軍・開府儀同三司に進む。
- 侯景が反すると征討大都督を加えられ軍を率いて討伐に赴いた。高祖は「侯景は小さな賊で戦の経験も少なく、一戦で殄滅できるものではない、時をかけて図るべし」と誡めた。綸は鍾離まで進んだが、景は既に采石を渡っており、綸は昼夜兼道で進軍し渡江の際に風が起こり人馬の十に一二が溺れた。それでも寧遠將軍の西豐公大春・新塗公大成らと歩騎3万を率いて京口を発した。
- 部将趙伯超は「黄城の大道からでは賊と遭遇する、間道から直ちに鍾山を目指し不意を突くべき」と献策し綸はこれに従った。大軍が到達すると賊は驚愕し三道に分かれて綸を攻めたが、綸はこれを大破し千余級を斬った。翌日再戦するも日暮れに賊が退き始めたところ、安南侯駿が数十騎で追撃、賊が反撃し駿の部隊が乱れたため大軍も潰れ、綸は鍾山に至るも兵はわずか千人、賊に囲まれ再敗して京口に奔り還った。
- 太清3年(549年)春、東揚州刺史大連らと再び入援し驃騎洲に至り司空に進位したが、台城は陥落し禹穴に奔った。大寶元年(550年)綸が郢州に至ると刺史の南平王恪が州を譲ろうとしたが受けず、綸を假黄鉞・都督中外諸軍事に上表し、百官を置き庁事を正陽殿と改めた。度々の怪異を綸は不吉に感じたという。
兄弟不和の書状
- 当時、世祖(元帝)は河東王譽を長沙で包囲しており内外の連絡が絶えていた。綸は急を聞き救援しようとしたが軍糧が続かず断念、世祖に書を送り「先朝の聖徳は天下を孝で治め、九親は雍睦であった。同じ神訓を奉ずる兄弟が旨を敦くすべきなのに、天時地利より人和が重い。骨肉相屠るなど有り得ぬこと」と説き、譽が先訓を無視して長沙を攻めたのは非であるとしつつも、兵で報いれば骨肉の争いとなり侯景を利するだけだと諭し、糧食を融通して長沙の包囲を解き社稷を保つよう懇請した。世祖は返書で河東の罪は解囲に値しないと述べ、綸はこれを読んで涙し「天下の事がここまで至るとは」と嘆いた。
- 綸は器甲を大いに修め侯景討伐を図ったが、元帝はその強盛を恐れ王僧辯に舟師一万を率いさせ綸に迫った。綸の部将劉龍武らが僧辯に降り軍は潰え、綸は子の確ら十余人と軽舟で武昌へ逃れた。長史韋質・司馬姜律は先に外におり綸の敗を聞いて馳せ参じ、散卒を収めて齊昌郡に屯し魏軍を引き入れ南陽を攻めようとしたが、景の将任約の鉄騎二百に不意を突かれ定州へ敗走した。
- 定州刺史田龍祖が迎えたが、龍祖はもと荊鎮所任であったため捕らえられることを恐れ再び齊昌へ戻る途中、汝南に至ると西魏に属していた城主李素が旧吏であったため城に迎え入れた。綸は城池を修め兵を集め竟陵を攻めようとしたが、西魏の安州刺史馬岫がこれを西魏に報告、西魏は大將軍楊忠・儀同侯幾通を派遣した。
- 大寶2年(551年)2月、楊忠らは汝南に至り綸は籠城したが、大雪の中でも攻略できず多くの死者を出した。しかし李素が流矢に当たり没すると城は陥落、楊忠らは綸を捕らえたが屈しなかったため殺害され、遺骸は江岸に投じられたが数日経っても顔色が変わらず鳥獣も近づかなかったという。時に33歳。百姓はこれを憐れみ祠廟を立て、後に世祖は「攜」と追諡した。
邵陵攜王綸の子・堅と確
- 長子の堅は字を長白といい、大同元年(535年)例により汝南侯に封じられ食邑500戸、草書と隷書を能くしたが性は凡庸浅薄であった。侯景の京城包囲時、太陽門に屯したが終日酒に耽り軍政を顧みず、疫病でも士卒を慰めなかったため皆憤慨していた。太清3年(549年)3月、堅の書佐董勛・華白曇朗が縄を引いて賊を城楼に登らせたため城は陥落、堅は害された。
- 弟の確は字を仲正といい少くして驍勇で文才があった。大同2年(536年)正階侯に封じられ食邑500戸、後に永安に徙封された。常に邸内で騎射・兵法を習い、人々に狂と見られたが、確は「私が国のため賊を破るのを見よ」と答えた。秘書丞・太子中舎人を歴任。鍾山の役で確は苦戦しつつも所向披靡で賊に恐れられ、毎陣気概あふれ甲を帯び鞍に据わったまま朝から夕まで駆け回っても疲れを見せず、諸将もその勇に服した。
- 侯景が乞盟した際、確は外にあってこれを後患とみて入城を求め、詔されて南中郎將・廣州刺史に召され食邑2000戸を増した。確は盟に多く裏があると見て南奔しようとしたが、攜王がこれを聞き確に入城を迫った。確が拒むと攜王は涙して「お前は反くつもりか」と責め、確は臺使の周石珍に「侯景は去ると言いながら囲みを解かない、その意図から結末は明らかだ、今召されても益はない」と述べたが、石珍は「勅旨の以上は辞せない」と答えた。確が意を曲げないと攜王は激怒し趙伯超に「譙州(確)を斬り首を闕に献じよ」と命じたが、伯超は刃を確に向けつつ「私は君を知るが刀は君を知らぬ」と述べ斬らなかった。確は涙して立ち去り入城した。
- 景が盟を破り再び城を囲むと、確は闥を排して入り高祖に「城は既に陥ちました」と告げた。高祖が「なお一戦できるか」と問うと確は「できません、私は自ら格戦しましたが勢を禁じ得ず、縄で城を下ってようやくここへ至りました」と答えた。高祖は「自ら得て自ら失った、何を恨もうか」と嘆じ、確に慰労の文を作らせた。
- 確が出て景に見えると、景はその膂力を愛し常に左右に置いた。ある時、景に従い外出した際、飛ぶ鳶を皆で射て当たらぬ中、確が射て命中させたため賊徒は妬み除こうとした。先に攜王が密かに人を遣り確に意を伝えていたため、確は使者に「侯景は軽佻な男、一夫の力で討てる。死は惜しまぬがまだその機を得ぬだけだ。帰って家王に伝え、案じられぬよう」と語ったが、事は成らぬまま賊に害された。
史論
- 史臣曰く、周漢以来、広く藩屏を樹て本を固め根を深くするのは古制に倣ったものである。南康・廬陵はともに宗室の貴として磐石の重きを担った。績は孝を以て著われ、續は勇を以て聞こえ、綸は聡警にして才学があったが性は険躁で罪により屢々黜せられた。しかし太清の乱にあって忠孝を独り存したことは称えるに値する、と。