出自と生い立ち
- 高祖(武帝)には八人の男子があった。丁貴嬪は昭明太子統・太宗簡文皇帝(綱)・廬陵威王續を生み、阮脩容は世祖孝元皇帝(繹)を生み、呉淑媛は豫章王綜を生み、董淑儀は南康簡王績を生み、丁充華は邵陵攜王綸を生み、葛脩容は武陵王紀を生んだ。綜と紀にはそれぞれ別に伝がある。
出自と天監年間の官歴
- 南康簡王績は字を世謹といい、高祖の第四子である。天監8年(509年)、南康郡王に封じられ食邑2000戸を与えられた。輕車將軍・領石頭戍軍事を経て、天監10年(511年)使持節・都督南徐州諸軍事・南徐州刺史に遷り仁威將軍に進号した。当時7歳であったが、主者が賄賂を受けて訴状を改竄した不正を見抜き即座に糾したため、人々はその聡明さに感嘆した。
- 天監16年(517年)宣毅將軍・領石頭戍軍事として召し戻され、17年(518年)使持節・都督南北兗徐青冀五州諸軍事・南兗州刺史として出鎮し治績を挙げた。召還の詔が下ると民曹嘉樂ら370人が闕下に上表し績の優れた治績15条を挙げ留任を乞い、詔で許された。北中郎將に進号。
- 普通4年(523年)侍中・雲麾將軍・領石頭戍軍事として召され、5年(524年)使持節・都督江州諸軍事・江州刺史として出鎮した。母の董淑儀の喪に服したが哀毀が礼を過ぎたため、高祖が手詔して慰め州務に戻らせたが、績はなお固辞したため安右將軍・領石頭戍軍事に転任、まもなく護軍を加えられたが病弱で職に堪えなかった。大通3年(529年)病により任地で薨去、時に25歳。侍中・中軍將軍・開府儀同三司を贈られ鼓吹一部を給され、諡は簡。
- 績は玩好を寡くし嗜欲少なく、質素な暮らしをして侍妾も置かず、租税は悉く天府に寄せていたため、薨後に南康国には蓄えがなかったという。
南康簡王績の子・㑹理――太清の乱と忠節
- 子の㑹理が嗣ぎ、字を長才といい聡慧で文史を好んだ。11歳で父を喪ったが高祖に特に愛され、正王と変わらぬ待遇を受けた。15歳で輕車將軍・湘州刺史・領石頭戍軍事、のち侍中・領軍將軍を経て宣惠將軍・丹陽尹に置佐史。使持節・都督南北兗北徐青冀東徐譙七州諸軍事・平北將軍・南兗州刺史となる。
- 太清元年(547年)諸軍を督して北討し彭城に至るが魏軍に敗れ本鎮に退いた。太清2年(548年)侯景が京邑(建康)を包囲すると㑹理は入援しようとしたが、北徐州刺史・封山侯の正表が兄の正徳の来援に託して実は広陵を襲おうとしたため、これを撃破してから進軍した。
- 台城が陥落すると、侯景は前臨江太守の董紹先を遣わし高祖の手勅を以て㑹理を召した。僚佐は皆これに応じないよう勧めたが、㑹理は「諸君の心事は私と異なる。天子は年老いて賊虜に制せられており、今その手勅で入朝を召される以上、臣子の道として背けようか。遠く江北にあっては功業も難しい。むしろ京都へ赴きこれを肘腋(そば近く)で図るべきだ」と述べて城を紹先に譲り京師に赴いた。景は㑹理を侍中・司空兼中書令とした。
- 賊の手中にあっても匡復を思い続け、西鄕侯歡らと密かに義士を結んだ。范陽の祖皓が紹先を斬り広陵で起義した際、㑹理を内応とする計画があったが、皓が敗れたため㑹理も連座し、景は詔を矯めて㑹理の官を免じたが、なお白衣のまま尚書令の任にとどめた。
- その冬、景が晉熈に赴き京師が手薄になると、㑹理は栁敬禮と再挙を謀った。敬禮が「兵がない」と言うと、㑹理は「湖熟には旧兵三千余人がおり、日を定めて呼応させ、賊の守兵千人程度なら外から攻め内で応じれば王偉を討てる。景が後で戻っても事は成る」と答え、敬禮も賛同した。当時百姓は賊政に苦しみ丹陽から京口まで呼応する者が多かったが、事は成らず、弟の祈陽侯通理とともに害された。
南康簡王績の子・乂理――孝行と最期
- 乂理は字を季英といい㑹理の第六弟である。生後十旬で父簡王績が薨じ、三歳で言葉を話せるようになった時、父の宮人が去るのを見て涙し、その理由を聞いて号泣した。服喪を終えてなお高祖を見ると悲泣が止まらず、高祖も涙を流して「この子は必ず奇士となろう」と語った。
- 大同8年(542年)建安縣侯に封じられ食邑500戸を与えられた。慷慨の気性で功名を慕い、忠臣烈士の書を読むたびに感嘆した。文才があり孔文舉の墓に碑を立て文を撰んだ。
- 太清年間、侯景の乱では賓客数百人を率いて南兗州に赴き、兄㑹理の入援に従い矢石を冒して士卒の先頭に立った。台城陥落後は㑹理に従い広陵に還り、北齊へ人質として赴き援軍を乞う途中、董紹先が広陵を占拠したため㑹理を追って捕らえられ、厳しく監視され兄弟の面会もできなかった。
- 請うて先に京師に還され母に別れを告げた際、姉の固安公主に「事既にかくの如し、家を挙げて斃れてはならない。兄が来たら善く計を為すよう伝えてほしい。家国が危うい以上、死んでも恨みはない。前途尽力したいが天命がどうなるか分からない」と語った。
- 京師で魏の降人・元貞が忠正であるとして玉柄の扇を贈り後事を託そうとしたが、貞は理由が分からず受けなかった。祖皓の起兵に際し乂理は長蘆で千余人を集めたが、内応する者が現れ㑹理は劫かされて衆は駭散し、乂理も景に害された。時に21歳。元貞は初めて前言の意味を悟り遺骸を収葬した。