出自と斉での立身
- 韋放、字は元直、車騎将軍叡の子。初め斉の晋安王寧朔迎主簿。高祖が雍州に臨むと主簿に召された。放は身長七尺七寸、腰帯八囲、容貌が偉丈夫であった。天監元年、盱眙太守。召されて通直郎、輕車晋安王中兵参軍、鎮右始興王咨議参軍に遷るが、父の喪で去職。服喪後、永昌県侯の爵を襲い、輕車南平王長史・襄陽太守として出向。仮節・明威将軍・竟陵太守に転じ、郡では和やかな治政を吏民に称えられた。
北伐の功
- 六年、大挙北伐が行われ、放は貞威将軍として胡龍牙と共に曹仲宗の軍に進んだ。七年、夏侯亶が黎漿を攻めて落とせなかったため、高祖は放に北道から軍を率い夀春の城に合流させた。まもなく雲麾南康王長史・尋陽太守に遷り、放は幾度も藩佐として著しい功績を挙げた。
- 普通八年、高祖は兼領軍曹仲宗らを遣わし渦陽を攻めさせ、放も明威将軍として師を率いて合流。魏の大将費穆が突如至った際、放の軍営はまだ整わず麾下わずか二百余人であったが、放の従弟洵は驍勇で一軍の頼みとされ、放が洵に単騎で撃たせると洵は何度も魏軍を挫いたが馬が傷を負い進めなくなった。放も三本の流矢を受けたが、士は動揺し放に退くよう請うたところ、放は「今日は死あるのみ」と厲声に叱り、冑を脱ぎ馬を下りて胡床に拠って指揮を執った。士はみな死を決して戦い、一人で百人に当たった。魏軍は退き、放は渦陽まで追撃した。
- 魏はさらに常山王元昭・大将軍李奬・乞佛寳・費穆ら五万を援軍として送ったが、放は将の陳度・趙伯超らを督して挟み撃ちにし大破した。渦陽城主王偉は城を挙げて降り、放は城に登って降者四千二百人・器仗を接収し、また降人三十人を遣わして李奬・費穆らにこれを報せると魏軍は諸営を捨てて一時に潰走、諸軍がこれに乗じて斬獲はほとんど尽き、穆の弟の超を捕らえ、王偉を京師に送った。
晩年
- 太子右衛率に召され、通直散騎常侍に転じ、持節督梁南秦二州諸軍事・信武将軍・梁南秦二州刺史として出向。中大通二年、督北徐州諸軍事・北徐州刺史に転じ邑四百戸を加えられ、持節将軍はもとのまま。鎮にあること三年、卒す。享年五十九。諡は宜侯。
- 放は性格が弘厚篤実で財を軽んじ施しを好み、諸弟と特に睦まじく、遠く別れる時も行役から戻った時も同室に起居し、当時「三姜」(漢の姜肱兄弟の故事)と称された。かつて放と呉郡の張率はともに側室に子を身ごもらせ、生まれれば婚姻を結ぼうと約したが、その後それぞれ男女を産んだ後に率が亡くなり、遺された嗣子が孤弱であったため、放は常にこれを援助した。北徐州刺史となった際、勢族が婚姻を求めてきたが、放は「私は故友への信を失わない」として、息子の岐に率の娘を娶らせ、自らの娘を率の子に嫁がせた。当時、放は旧誼を篤く守る人物として称えられた。長子の粲が爵を嗣ぎ、別に伝がある。
史論
- 史臣曰く、裴邃は詞采に早くから優れ、思慮謀略も深沈であった。夏侯亶は学を好み弁が立ち、夔は豪奢で士を愛した。韋放は弘厚篤行であった。皆、主に遇い時に逢いその才を展べ、州郡を治め敵を破り辺境を安んじて功績著しく、文武の任を兼ね備えた梁室の名臣というべきである。