梁書卷二十七 列傳第二十一 陸襄

出自と孝行

  • 陸襄、字は師卿、呉郡呉の人。父の閑は斉の始安王遙光の揚州治中。永元末、遙光が東府に拠って乱を起こした際、閑に逃げるよう勧める者があったが、閑は「私は人の吏として、どうして死を逃れられようか」と応じなかった。台軍が城を攻め落として閑を捕らえ刑に処そうとした際、次子の絳が身代わりを願ったが叶わず、閑自ら刃を蔽い、刑者に共に害された。襄は父兄の惨事を痛み、喪に服する礼を過ぎ、服を脱いだ後も居喪のように過ごした。
  • 天監三年、都官尚書范岫の上表により推薦され、著作佐郎に抜擢され、永寧令に任じられて秩満を務め、司空臨川王法曹外兵、輕車廬陵王記室参軍を歴任した。昭明太子は襄の行いを聞き、高祖に取り計らって近侍させ、太子洗馬・中舎人として共に管記を掌らせた。

揚州治中から鄱陽内史へ

  • 揚州治中に出向するが、父が終えた官であるとして固辞し、高祖は許さなかったが府司馬と居を交換することを認めた。昭明太子は老人を敬い、襄の母が齢将に八十に及ぶと、蕭琛・傅昭・陸杲とともに毎月存問を遣わし珍羞・衣服を賜った。母がかつて心痛を患い、医が三升の粟漿を求めたが冬の暮れで手立てがなかったところ、老人が漿を売りに来て量が処方通りだったため代金を払おうとすると老人は姿を消しており、人々は襄の孝の感応と考えた。
  • 国子博士・太子家令に遷り再び管記を掌るが、母の喪で去職。すでに五十を過ぎながら哀毀は礼を過ぎ、太子はこれを憂い日々使者を遣わして誡諭した。服喪後、太子中庶子となり再び管記を掌る。中大通三年、昭明太子が薨じ官属が罷免されると、妃蔡氏が金華宮に別居し、襄は中散大夫・歩兵校尉を領し金華宮家令として宮事を知る。七年、鄱陽内史として出向。
  • 先に郡民の鮮于琛が服食修道の法を行い、山に薬を採りに入って五色の幡眊と地中の石璽を得て怪しみ、妻と別室に住むと常に異気があると称して神秘化し、大同元年、門徒を結んで広晋令王筠を殺し「上願」と号して官属を置いた。一党は誑惑を広め衆一万余人を集めて郡を攻めようとしたが、襄はあらかじめ民吏を率いて城隍を修め防備し、賊が到ると連戦して破り琛を生け捕り、残党を逃散させた。近隣の豫章・安成などの郡守はこの機に乗じ賄賂を求めたため冤罪も生じたが、襄の郡だけは枉直に濫りなく、民は「鮮于(琛)が平定された後、善悪が分かれ、民に枉死なきは陸君のおかげ」と歌った。また彭・李の二家が争い訴え合った際、襄は両者を内室に招き責めず和言で解き、感じ入った二人が酒食を設けて和解したため、民は「陸君の政に怨む家なし、闘い罷んで讐も同じ車に乗る」と歌った。
  • 在任六年で郡は大いに治まり、民の李睍ら四百二十人が闕に詣で襄の徳化を陳べ、郡に頌徳碑を立てることと留任を願い出て許されたが、襄は帰任を固く願い出た。

侯景の乱と晩年

  • 吏部郎に召され、秘書監・領揚州大中正に遷る。太清元年、度支尚書に遷り中正はもとのまま。二年、侯景が挙兵し宮城を囲むと、襄は侍中省に直宿した。三年三月、城が陥落すると襄は呉に逃れたが、賊はまもなく東境を侵し呉郡も陥った。賊将宋子仙が銭塘に進攻した際、海塩の陸黯が義兵数千を挙げ夜に郡を襲い偽太守蘇単于を殺し、襄を推して郡事を代行させた。当時淮南太守文成侯蕭寧が賊を避けて呉に逃れており、襄は寧を迎えて盟主とし、黯と兄子の映公に軍を率いさせ子仙を拒んだが、子仙は兵が起こったと聞き退いて松江で黯らと戦い、黯は敗走し呉下の軍も散った。襄は墓の下に隠れ、一夜憂憤のうちに卒した。享年七十。
  • 襄は若くして家の禍にあい、生涯蔬食布衣を通し音楽を聞かず殺害の話も口にしなかったこと五十余年に及んだ。侯景平定後、世祖は侍中・雲麾将軍を追贈し、建義の功により餘千県侯に追封し邑五百戸を賜った。

史論

  • 陳の吏部尚書姚察が言う、陸倕は博く文理に渉り、到洽は身を捨てて貞節を貫き、明山賓は儒雅で篤実、殷鈞は静素恬和、陸襄は孝性淳深であった。境遇は異なれど、みな名臣の列に連なる人々である。