出自と若年
- 殷鈞、字は季和、陳郡長平の人。晋の太常融の八世孫。父の叡は才弁で名を知られ、斉世に司徒従事中郎を歴任。叡の妻王奐の女は、奐が雍州刺史・鎮北将軍となった際、朝廷に叡を鎮北長史・河南太守にと言上させたが、奐が誅されると叡も連座して害された。鈞は当時九歳、孝で知られた。成長しては恬静で交遊を好まず、学を好み思慮に長け、隷書をよくし当代の楷法とされ、南郡の范雲・楽安の任昉に称賛された。高祖は叡と若い頃からの旧知であったことから娘を鈞に嫁がせ、これが永興公主である。
梁での歴任
- 天監初、駙馬都尉を拝命し、秘書郎・太子舎人・司徒主簿・秘書丞として出仕。鈞は在職中に秘閣四部の書を校定し目録を新たに作成し、また詔を受けて西省の法書古迹を検討し品目を別に立てた。驃騎従事中郎・中書郎・太子家令として東宮の書記を掌り、まもなく給事黄門侍郎・中庶子・尚書吏部郎・司徒左長史・侍中。東宮に学士が置かれると再び鈞がこれに就く。公事により免ぜられるが再び中庶子となり国子博士を領し、左驍騎将軍・博士はもとのまま。明威将軍・臨川内史として出向。鈞は体が弱く病がちで、閣に籠って治めても徳が民を化し劫盗が境外へ去ったといい、かつて劫賊の頭目を捕らえても拷問せず和言で諭すと、賊は稽首して過ちを悔い、後に善人となったという。郡には昔から山瘧(マラリア)が多く暑さのたびに流行したが、鈞の在任中は瘧疾がなくなった。
- 母の喪に服し礼を過ぎるほど哀しんだため、昭明太子が案じ手書きで「哀しみが過ぎ、食事もほとんど摂らないと聞く。毀して命を損なうことは聖教の許さぬところ、どうか自ら節度を保ち、饘粥果蔬を少しでも摂るように」と誡諭した。鈞は感涙して「賜った手令を拝読し感激に堪えません。生来虚弱な身に重ねての病により、日々朦朧として哀楽の理を制する余力もございませんが、薬による滋養を用い、聖言に従い自ら補うよう努めます」と答えた。
晩年
- 服喪後、五兵尚書に遷るが、病でしばらく拝受できず、後に散騎常侍・歩兵校尉を領し東宮に侍り、まもなく中庶子を領する。昭明太子が薨じ官属が罷免されると、右遊撃を兼ね国子祭酒に除せられ常侍はもとのまま。中大通四年卒す。享年四十九。諡は貞子。二子は構・渥。