梁書卷二十七 列傳第二十一 明山賓

出自と斉での立身

  • 明山賓、字は孝若、平原鬲の人。父の僧紹は隠居して仕えず、宋末に国子博士に徴されたが応じなかった。山賓は七歳で玄理を語り、十三歳で経伝に通暁し、喪に服する際も礼を尽くした。州から従事史に辟され、奉朝請として出仕。兄の仲璋が痼疾を患い家計が窮したため、山賓は俸禄を求めて仕えるようになった。斉の始安王蕭遙光に撫軍行参軍として引き立てられ、後に広陽令となる。まもなく去官し、義師が起こると高祖に相府田曹参軍として迎えられた。梁台建国後、尚書駕部郎に遷り、治書侍御史・右軍記室参軍として吉礼を掌る。当時初めて五経博士が置かれ、山賓はその最初の一人に選ばれた。

梁での歴任

  • 北中郎諮議参軍に遷り皇太子の侍読を務め、中書侍郎・国子博士・太子率更令・中庶子・博士はもとのままを歴任。天監十五年、持節督縁淮諸軍事・征遠将軍・北兗州刺史として出向。普通二年、太子右衛率に召され給事中を加えられる。御史中丞に遷るが公事により左遷され黄門侍郎・司農卿。四年、散騎常侍・青冀二州大中正を領す。東宮に新たに学士が置かれ山賓がこれに就く。まもなく本官のまま国子祭酒を兼ねる。
  • 山賓が州にあった時、管内の平陸県が不作となり、倉米を出して民を救ったが、後に刺史が州曹の帳簿の不備を検分し、山賓が損失を出したとして有司が追徴し宅を没収した。山賓は弁明せず市で土地を買い直して家を建てた。昭明太子はこれを聞き、令を下して「明祭酒は大藩を治める重責を担いながら常に窮乏し、家を建てられずにいると聞く」として詩とともに援助を送った(詩は略す)。

人物と晩年

  • 山賓は篤実な性格で、家が貧しく乗っていた牛を売った際、代金を受け取った後で買主に「この牛はかつて蹄の病を患い治ったばかりで、後に再発するかもしれない、告げずには売れない」と告げて代金の一部を戻そうとした。処士の阮孝緒はこれを聞き「この一言は世の風俗を純朴に戻すに足る」と嘆じた。
  • 五年、再び国子博士・常侍・中正はもとのまま。その年、本官のまま仮節で北兗州事を摂り、大通元年、卒す。享年八十五。侍中・信威将軍を追贈され、諡は質子。昭明太子は哀を挙げ、銭十万・布百匹を賻し、舎人王顒を遣わして喪事を監護させた。また前司徒左長史殷芸への令で、山賓が儒術に該通し温厚淳和で、経を授けて以来二紀(二十四年)にわたり忠規を尽くしたことを悼み、長逝を悲しんだ。
  • 山賓は長く学官にあり訓導に功があった。性格は疎通で諸生と親しみ人々に愛された。著書に吉礼儀注二百二十四巻・礼儀二十巻・孝経喪礼服儀十五巻がある。子の震、字は興道、父の学を継ぎ、太学博士・太子舎人・尚書祠部郎・餘姚令を歴任した。