出自
- 徐勉、字は脩仁。東海郯の人である。祖父の長宗は宋の高祖の霸府行参軍。父の融は南昌相。勉は幼くして孤貧、早くから清節に励んだ。六歳のとき長雨が続き、家人が晴れを祈ると、思いのままに一文を作って耆宿に称賛された。長じては志を篤くして学を好んだ。
- 国子生に起家し、太尉文憲公・王儉が祭酒であった当時、常に勉には宰輔の器量があると称した。射策で高第に挙げられ西陽王国侍郎に補せられ、まもなく太学博士鎮軍参軍尚書殿中郎に遷ったが公事により免ぜられた。また中兵郎領軍長史に除せられた。
- 琅邪の王元長は才名甚だ高く、勉と識り合おうとしてしばしば人を介して招いたが、勉は人に「王郎は名声が高く期待も大きく、軽々しく近づくべきではない」と語った。まもなく元長は禍にあい、時人はその識見に感服した。
- 初め長沙宣武王(懿)と交遊があり高祖に深く器量を認められていた。義兵が京邑に至ると、勉は新林で高祖に謁見し厚く恩礼を受け、書記を管掌させられた。高祖の践阼後、中書侍郎を拝し、建威将軍後軍諮議参軍本邑中正尚書左丞に遷り、みずから枢要の職を掌って糾弾すること多く、時論はこれを称職とした。
生涯
- 天監二年(503年)給事黄門侍郎尚書吏部郎参掌大選に除せられ、侍中に遷った。時に王師が北伐しており、駅使が絶えず往来し、勉は軍書を掌って昼夜労を惜しまず、数十日を経てようやく一度帰宅するほどで、帰るたびに飼い犬が驚き吠えたという。勉は「私は国を憂えて家を忘れるあまりここまでになった。もし私が死んだ後もこれもまた伝記の一事となろう」と歎じた。
- 六年(507年)給事中五兵尚書に除せられ、吏部尚書に遷った。勉が人事を掌ると秩序が保たれ、文書に通じ言葉遣いも巧みで、書類が山積し客が満座であっても応対はよどみなく筆も止まらず、諸家の学にも通暁して忌諱を避けた。門人と夜集することがあり、客の虞暠が詹事府の五官の職を求めたところ、勉は正色して「今宵はただ風月を語るだけで、公事に及ぶべきではない」と答え、時人はその無私に感服した。
- 散騎常侍領游撃将軍に除せられたが未拝のまま太子右衛率を領し、左衛将軍領太子中庶子に遷って東宮に侍した。昭明太子はまだ幼く、勅で宮事を知らしめられ、太子は厚く礼遇して事あるごとに諮問した。かつて殿内で孝経を講じた際、臨川静恵王・尚書令沈約が二傅を務め、勉は国子祭酒張充とともに執経となり、王瑩・張稷・柳憕・王暕が侍講となった。選抜はきわめて親賢を極め、当時の誉れを尽くした。勉は数度辞退し、沈約に書を送って侍講の役を換えるよう求めたが許されず、そのまま就いた。
- 太子詹事領雲騎将軍に転じ、まもなく散騎常侍を加えられ、尚書右僕射に遷り詹事はそのまま、また侍中に改授された。しばしば表を上げて宮職を辞そうとしたが、優詔で許されなかった。
- 当時、世間の喪事は多く礼に従わず、朝に亡くなれば夕には殯葬するなど速さを競う風潮があった。勉は上疏し、『礼記』問喪篇の「三日にして後に歛す」の趣旨は死者の蘇生を待つためであると説き、近来の風潮のように速やかに埋葬を急ぐのは人情に悖ると論じ、士庶に古礼にのっとり三日大歛を行うよう定め、違反者は糾すべきだと上奏した。詔でこれを可とした。
- まもなく宣恵将軍を授かり佐史を置き、侍中僕射はそのままとされた。また尚書僕射中衛将軍に除せられた。勉は旧恩により重位に抜擢されたが、心を尽くして上に仕え為すべきをすべて為した。若い頃の選官の任から今の職に至るまで常に衡石(人事の権衡)を掌り士心を大いに得た。禁省の事を漏らすことはなく、上奏のたびに草稿を焼き捨てた。経史に広く通じ古来の典故に詳しく、朝儀・国典・婚礼冠礼・吉凶の礼にみな関与し議した。
- 普通六年(525年)、五礼を脩める表を上げた。その趣旨は、礼とは天地陰陽・人倫仁義の道を秩序づけ国家を治め後嗣を利するものであると説き起こし、周代に礼制が最も整ったが周室の衰えとともに礼楽征伐が諸侯に移り旧章は失われたこと、秦の滅学を経て漢代に叔孫通が礼を制定し、その後も戦乱のたびに散逸と再編が繰り返され、東京(後漢)曹褒の集成も未完に終わり、晋の荀顗・摯虞による新礼も中原の喪乱で多くを失ったことを回顧した。
- さらに、斉の永明三年に太子歩兵校尉伏曼容が一代の礼楽を制定するよう求めて以来、王儉ら学士十人が五礼を分担して編纂に着手したが、王儉の薨去で遺文は散逸し、その後何胤に付されるも九年を経てなお未完、建武四年に何胤が退いた後は徐孝嗣が引き継ぐも永元中に禍にあってまた多くを失い、蔡仲熊・何佟之が残余を掌ったが東昏の代の兵乱でその過半をまた失ったという経緯を述べた。
- 天監元年、何佟之の上奏を機に編纂の可否が議されたが、時は建国間もなく務めが多いとして一旦礼局を尚書儀曹に併せることとされたものの、詔旨は「礼が壊れ楽が欠けているのは国ごと家ごとに異なる実情による、時に応じて修定し永久の準則とすべきである」とし、人選を改めて改めて編纂が命じられた。尚書僕射沈約らの議により五礼それぞれに旧学士一人を置き、各自が学士二人を挙げて抄撰を助けさせ、疑義は前漢の石渠閣・後漢の白虎観の故事にならい奏請して裁定を仰ぐこととした。
- 旧学士として右軍記室参軍明山賓が吉礼を、中軍騎兵参軍厳植之が凶礼を、中軍田曹行参軍兼太常丞賀瑒が賓礼を、征虜記室参軍陸璉が軍礼を、右軍参軍司馬裴が嘉礼をそれぞれ掌り、尚書左丞何佟之が全体を統括した。何佟之の没後は鎮北諮議参軍伏暅がこれに代わり、のち伏暅が厳植之に代わって凶礼を掌ったが、伏暅が転任した後は五経博士繆昭が凶礼を掌った。さらに礼の範囲が広大で記載に欠落があるとして、鎮軍将軍丹陽尹沈約・太常卿張充と勉の三人が共にこの務めに参与し、勉はまた別勅で全体を統括するよう命じられた。末には中書侍郎周捨・庾於陵の二人も参知に加わった。疑義があれば担当学士がまず議を立てて旧学士・参知に諮り、異同を条ねて上奏し裁決を仰ぐという手順を定め、経誥に基づく制旨の裁断は数少なくなかったという。
- 五礼はそれぞれ完成の時期を異にし、嘉礼の儀注は天監六年五月七日(507年)に尚書に上呈され十二秩百十六巻五百三十六条、賓礼の儀注は天監六年五月二十日に上呈され十七秩百三十三巻五百四十五条、軍礼の儀注は天監九年十月二十九日(510年)に上呈され十八秩百八十九巻二百四十条、吉礼の儀注は天監十一年十一月十日(512年)に上呈され二十六秩二百二十四巻千五条、凶礼の儀注は天監十一年十一月十七日に上呈され四十七秩五百十四巻五千六百九十三条であった。総計百二十秩・千百七十六巻・八千十九条にのぼり、副本を秘閣及び五経典書に各一通備え、繕写校定を経て普通五年二月(524年)に浄書を終えたという。
- 勉は表の末尾で、この撰正は歴代でもまれな事業であり、聖代にあってようやく成ったこと、周代の礼の数「三千」に対し今回は「八千」に及びその数が倍加していること、文武二王が周室の綱紀を立て周公旦がこれを修めて太平をもたらした故事に触れ、自らの浅学非才を慙じつつも歴年その任に応えられたことを述べ、前後の同僚がすでに世を去る中、自身も老いを迎えつつあることを案じ、大典が欠けることのないよう脩撰の始末と職掌・巻数条目を記して奏上した。詔で「経礼が大いに備わり政典が弘まった、有司はこれを案じて行うべし」と述べられ、また「勉の表の通り、改革は理に適い憲章はよく備わり功業が定まった、これを天下に光被させ万世に伝えるべく、主者はこれに拠って遵行し失墜させることのないように」との詔が下された。
- まもなく中書令を加えられ親信二十人を給せられた。勉は疾を理由に内任を辞そうとしたが詔で許されず、下省に留まり三日に一度朝するのみで、事あれば主書を遣わして論決させることとなった。脚の疾がひどくなり長く朝覲を欠くと固く辞任を求め、詔で休暇を賜り疾が癒えてから省に戻るよう命じられた。
- 勉は高位にありながら産業を営まず家に蓄財もなく、俸禄は困窮した親族に分け与えた。門人・故旧が折に触れて意見すると、勉は「人は子孫に財を遺すが、私は清白を遺す。子孫に才があれば自ら富を築くだろうし、才がなければ結局他人の物になるだけだ」と答えた。
- かつて子の崧に誡めの書を送り、次のように述べた。我が家は代々清廉であって産業を語ったことがなく、今日の高位厚禄はひとえに先代の風範と福慶によるものであり、「清白を子孫に遺す」「黄金満籯より一経」という古人の言葉を実践してきた。門人・故旧が田園の開墾や邸店経営、水運による貨殖をしばしば勧めたが、みな拒んで受けなかった。中年に東田に小さな園を営んだのも利殖のためではなく、池を掘り木を植えて心を寄せる場とし、あわせて将来の住まいとするためであった。清明門の邸宅は手狭で、以前その西辺を割いて宣武寺に施したためさらに狭くなったが、それを恨みとしない。むしろ世の栄枯盛衰を見るにつけ、小さな築山に石を積み花木を配して心を養う場を設けたに過ぎない。東辺に子や孫のための二宅を営むにあたっては十住(子)の帰郷の資を頼りとし、また郊外の園を手放して韋黯より百金を得てようやく二宅を成したが、その郊外の園は自らが長年かけて桃李・桐竹を茂らせ水路を通わせ楼榭を営んだ由緒あるものであった。謝霊運の山家詩「中ごろ天地の物と為り、今は鄙夫の有と成る」を引き、この園も二十年間自分のものであったがいずれ天地の物に還ると述べ、これを子に分け与えるとした。財貨は仏典に言う「外命」、儒典にも「何を以て人を聚めるか、財なり」というが、それでも常人の情としては軽んじがたいと理解を示しつつ、姑孰に買った田地が痩せていることを案じ、寝丘(自ら貧しい封地を選んだ孫叔敖の故事)に倣うものだと述べた。家を治めることは官を治めることに通じるとの孔子の言葉を引き、既に営んだ以上は成し遂げるべきで、収益は崧が内外・大小の親族に分与すべきであり娘たちにも及ぶべきとした。長子としての務めを説き、一族の融和と謙譲を求め、老子の「その身を後にして身は先んず」を引いて自制を促し、自らは老齢の身で公務の合間にわずかな閑適(散策・観魚・聴鳥・弾琴)を楽しみたいだけであるとし、以後は田事について子と語らないと結んだ。
- 勉の第二子・悱が亡くなると勉は深く痛悼したが、久しく王務を廃することを望まず、答客喩を作りその中で次のように述べた。普通五年(524年)春二月丁丑、第二子で晋安内史の悱の喪の知らせが至り、一家は傷み悲しんだ。皇帝・皇太子も中使を遣わして慰問した。門人が「古来生死は理の常であり、悲しみに過ぎて職務を廃するのは君侯にふさわしくない」と諫めたのに対し、勉は「彭殤(長寿と夭折)の達観や延陵季子・西河の喪明の故事は承知しているが、悱はまだ三十を過ぎたばかりで孝悌篤く才藻に優れ学を好み著述も多く、東宮に出仕して名声を得ていたのに志半ばで身罷ったことを痛惜せずにいられない」と答え、夷甫(王衍)や潘岳(安仁)の故事にも触れつつ、最終的に諸賢の勧めを容れて哀を止め、職務に復した。
- 中大通三年(531年)、また疾を理由に自陳し、特進右光禄大夫侍中中衛将軍に移され、佐史はそのまま置き親信四十人を増された。皇帝・皇太子から絶えず見舞いの使者が訪れ、衣食・医薬はみな朝廷から給された。皇帝がたびたび臨幸しようとしたが、勉は拝伏の礼に不備が出ることを理由にしばしば辞退を願い、詔でこれを許され行幸は取りやめとなった。
- 大同元年(535年)卒した。時に年七十。高祖はこれを聞いて涙を流し、その日のうちに車駕で殯に臨み、特進右光禄大夫開府儀同三司を追贈し他の官はそのままとし、東園秘器・朝服一具・衣一襲、賻銭二十万・布百匹を給した。皇太子も朝堂で挙哀した。諡を簡粛公という。
- 勉は文を能くし著述に勤しみ、機務にあってもなお筆を止めなかった。起居注が煩雑であるとして刪撰を加え別起居注六百巻を編み、左丞弾事五巻、選曹在任中に選品五巻、斉代には太廟祝文二巻を撰し、儒仏二教は道を異にしつつ帰するところは一つとして会林五十巻を撰した。前後の文集はあわせて四十五巻、また婦人集十巻を編み、みな世に行われた。大同三年(537年)、かつての佐史であった尚書左丞劉覧らが闕に詣で勉の行状を陳べ石に刻んで徳を記すことを請い、詔で墓に碑を建てることが許された。
- 悱、字は敬業。幼くして聡敏で文を能くした。著作佐郎に起家し太子舎人に転じて書記の任を掌り、洗馬中舎人を歴任してなお書記を管掌し、東宮に出入りすること長年に及んだが、足の疾により湘東王友として出て晋安内史に遷った。
史論
- 陳の吏部尚書姚察曰く、徐勉は若い頃から志を励まし食を忘れて発憤修身し、言行を慎み交遊を選び、あわせて興王(高祖)の運に恵まれ日月の光に依った。それゆえ経術を明らかにして卿相の位を得、重任にあってもひたすら誠を尽くして主に仕え、古の道に則り先王に依拠し、公平な人事を保ちながら誰からも異論を挟まれることがなかった。梁の宗臣として盛んなりというべきである。