梁書卷二十三 列傳第十七 永陽嗣王伯游

業――父懿の生涯

  • 長沙嗣王業、字は静曠。高祖(蕭衍)の長兄・懿の子である。懿、字は元逹。若くして令誉があり、斉に出仕して安南邵陵王行参軍となり、臨湘県侯の爵を襲いだ。太子舎人・洗馬・建安王友を経て晋陵太守となり、赴任してひと月足らずで訟事を治め民を和し、善政と称された。
  • 入朝して中書侍郎となり、永明の末年、持節都督梁南北秦沙四州諸軍事・西戎校尉・梁南梁二州刺史を授かり、冠軍将軍を加えられた。この年、魏人が漢中に入り南鄭を囲んだが、懿は臨機に応戦して多くを傷殺し、魏軍は囲みを解いて退いた。懿はさらに氐族の帥・楊元秀を遣わして魏の歴城・皋蘭・駱火・坑池など六戍を攻めさせこれを克ち、魏人は震え辺境は静まった。
  • 征虜将軍に進み、封邑三百戸を増され、督益寧二州軍事・益州刺史に遷り、入朝して太子右衛率・尚書吏部郎・衛尉卿となった。永元二年(500年)、裴叔業が豫州に拠って反すると、持節征虜将軍督豫州諸軍事豫州刺史・歴陽南譙二郡太守を授かって叔業を討ち、叔業は恐れて魏に降った。
  • 続いて平西将軍崔慧景が京邑に侵入し、江夏王宝玄を奉じて台城を囲み斉室は大乱に陥った。詔で懿が召されると、懿は食事中に箸を投げて立ち、精鋭三千を率いて城を救援した。慧景がその子・覚を遣わして拒ませたが、懿はこれを迎撃して大破し、覚は単騎で逃走、懿は勝ちに乗じて進撃し慧景の軍は潰走した。
  • 侍中尚書右僕射を授かったが未拝のまま尚書令都督征討水陸諸軍事・持節将軍を仍任され、封邑二千五百戸を増された。時に東昏侯は暴虐で、茹法珍・王咺之らが政を執り、宿臣旧将が次々誅せられた。懿は元勲として独り朝右に立ち、法珍らに深く憚られ、彼らは東昏に「懿は隆昌の故事を行おうとしている、陛下の御命は旦夕にある」と讒言した。東昏はこれを信じ懿を厳刑に処そうとしたが、懿の親しい者がこれを知り密かに江渚に舟を用意し西へ奔るよう勧めた。懿は「古来皆死あり、どうして尚書令たる者が叛走できようか」と言い、遂に禍にあった。
  • 中興元年(501年)、侍中中書監司徒を追贈され、宣徳太后の臨朝により太傅に改贈された。天監元年(502年)、丞相に追崇され長沙郡王に封ぜられ、諡を宣武という。九旒の鸞輅・輼輬車・黄屋左纛・前後部の羽葆鼓吹・挽歌二部・虎賁班剣百人を賜り、葬礼はすべて晋の安平王の故事に依った。

業――生涯

  • 業は幼くして聡明で、識量が人に優れていた。斉に仕えて著作郎・太子舎人となり、宣武王(懿)遭難の折には弟の藻・象とともに逃れ隠れた。高祖の軍が至ると軍中に赴き、寧朔将軍とされた。中興二年(502年)、輔国将軍・南琅邪清河二郡太守に除せられた。
  • 天監二年(503年)、長沙王を襲封し、冠軍将軍に徴され佐史を置くことを許された。秘書監に遷り、四年(505年)侍中に改授、六年(507年)散騎常侍太子右衛率に転じ、左驍騎将軍に遷って中護軍・領石頭戍軍事となった。
  • 七年(508年)、使持節都督南兖兖徐青冀五州諸軍事・仁威将軍・南兖州刺史として出鎮。八年(509年)護軍に徴され、九年(510年)中書令に除せられ、安後将軍・鎮琅邪彭城二郡・領南琅邪太守に改授された。十年(511年)安右将軍散騎常侍に徴され、十四年(515年)再び護軍・領南琅邪彭城・鎮牙琅邪となった[^1]。再び中書令に徴されたのち、軽車将軍湘州刺史として出鎮した。
  • 業は性質篤実で、赴任先で恩恵を残し、因果の理を深く信じ仏法に篤く帰依したため、高祖はいつもこれを嘉した。普通三年(522年)散騎常侍護軍将軍に徴され、四年(523年)侍中金紫光禄大夫に改められ、七年(526年)薨じた。時に年四十八、諡を元という。文集が世に行われた。子の孝儼が嗣いだ。

孝儼(業の子)

  • 孝儼、字は希荘。聡慧で文才があり、射策甲科に及第して秘書郎太子舎人に除せられた。高祖の華林園行幸に従い、その席で相風鳥・華光殿・景陽山などの頌を献じ、その文は甚だ美しく高祖は深くこれを賞した。普通元年(520年)薨じた。時に年二十三、諡を章という。子の眘が嗣いだ。

藻(業の弟)

  • 藻、字は靖藝。元王(業)の弟である。若くして名行を立て、志操は清潔であった。斉の永元の初め著作佐郎に釈褐し、天監元年(502年)西昌県侯に封ぜられ食邑五百戸を得、持節都督益寧二州諸軍事・冠軍将軍・益州刺史として出鎮した。
  • 当時天下は草創の時で辺境は未だ安定せず、州民の焦僧護が数万を集め郫・樊に拠って乱を起こした。藻はまだ弱冠に満たなかったが僚佐を集めて自ら討とうと議し、反対する者があると大いに怒って階側で斬った。平肩輿に乗って賊塁を巡行すると、賊の矢が雨のごとく降り従者は盾で防ぎつつ進み、これによって軍中の人心は安まり賊は夜のうちに逃げ去った。藻は騎兵に追撃させて数千級を斬り、乱を平定した。信威将軍に進んだ。
  • 九年(510年)太子中庶子に徴され、十年(511年)左驍騎将軍・領南琅邪太守となり、入朝して侍中となった。藻は謙退な性で名を求めず、文辞に巧みで古体の文を好んだが、公の宴以外では気ままに作らず、たとえ小文を成しても草稿を破棄した。
  • 十一年(512年)使持節都督雍梁秦三州竟陵随二郡諸軍事・仁威将軍・寧蛮校尉・雍州刺史として出鎮し、十二年(513年)使持節都督南兖兖徐青冀五州諸軍事・兖州刺史(軍号はそのまま)に徴された。しばしば鎮を歴任したが、民吏は彼を称え、常に善を人に譲って及ばぬ者のごとく謙った。
  • 太子詹事に徴され、普通三年(522年)領軍将軍に遷り侍中を加えられた。六年(525年)軍師将軍となり、西豊侯正徳とともに渦陽を北伐したが撤退し、有司に奏されて免官・削爵とされた。七年(526年)宗正卿に起用され、八年(527年)爵を復封され、左衛将軍領歩兵校尉に除せられた。
  • 大通元年(527年)侍中中護軍に遷る。時に渦陽が降ったばかりで、藻は使持節北討都督征北大将軍として渦陽に鎮した。二年(528年)中権将軍金紫光禄大夫となり佐史を置き侍中を加えられ、中大通元年(529年)護軍将軍に遷り中権はそのままとされた。三年(531年)中軍将軍太子詹事となり、丹陽尹として出た。
  • 高祖はつねに「子弟がみな迦葉(藻の幼名)のようであれば、私はもう何を憂えようか」と歎じた。入朝して安左将軍尚書左僕射侍中を加えられたが、藻は固辞して受けず、詔しても許されなかった。大同五年(539年)中衛将軍開府儀同三司中書令に遷り、侍中はそのままとされた。
  • 藻は性恬静で独り一室に居し、床には座り続けた膝の痕が残っていた。宗室の衣冠の者はみなこれを手本とした。爵禄が過分であることを常に思い、退隠を望んで門庭は閑寂とし賓客を通わせることが稀であった。「太祖」(高祖蕭衍を指すとみられる)[^2]は特にこれを敬愛した。家禍(懿の死)に遭って以来、常に布衣蒲席で暮らし鮮魚や鶏肉を食べず、公の場でなければ音楽を聴かなかった。高祖はいつもこれを称えた。
  • 使持節督南徐州刺史として出た。侯景の乱の際、藻は長子の彧に兵を率いて入援させ、城が開かれると散騎常侍大将軍を加えられた。景は儀同の蕭邕を遣わして代わらせ京口に拠らせた。藻は感気の病を得て自ら治療せず、江北へ奔るよう勧める者もあったが、藻は「私は国の重臣であり位任は特に重い。逆賊を誅殺できぬ以上、まさに朝廷と死を共にすべきだ。どうして異類に身を投じて余生を保てようか」と言い、断食を重ねた。太清三年(549年)薨じた。時に年六十七。

永陽嗣王伯游

  • 永陽嗣王伯游、字は士仁。高祖の次兄・敷の子である。敷、字は仲逹。斉の後将軍征虜行参軍に釈褐し、太子舎人洗馬に転じ、丹陽尹丞に遷り、入朝して太子中舎人となり、建威将軍随郡内史に除せられて遠近を招き懐け民を安んじ、前後の治績に及ぶ者はないとされた。寧朔将軍に進み、廬陵王諮議参軍に徴されたが建武四年(497年)薨じた。
  • 高祖の即位後、侍中司空を追贈され永陽郡王に封ぜられ、諡を昭という。伯游は風采秀でて玄理を語るのに巧みであった。天監元年(502年)四月、詔に「兄の子・伯游は年歯・見識はまだ十分でないが意向はほぼ良い。浙東の要地はまさに撫慰の任を要する」とあり、会稽東陽新安永嘉臨海五郡諸軍事督・輔国将軍・会稽太守に任じられ、永陽郡王を襲封した。五年(506年)薨じた。時に年二十三、諡を恭という。