出自と経歴
- 江蒨は字を彦標といい、済陽考城の人で、曾祖湛は宋の左光禄儀同三司、父斆は斉の太常卿で、いずれも前世に重名があった。蒨は幼くして聡警で書を読めば一度目にすれば諳んじることができた。国子生に選ばれ尚書に通じ高第に挙げられ、秘書郎として起家し、司徒東閣祭酒・廬陵王主簿に累遷し、父の喪に孝で聞こえ墓側に廬した。明帝は勅により斉仗二十人を遣わし墓所を守らせた。服喪を終えると太子洗馬を除され、司徒左南属・太子中舎人・秘書丞に累遷し、出でて建安内史となった。視事すること期月にして、義師が下って江州に次すると、寧朔将軍劉諓之を郡に遣わしたが、蒨は吏民を率いて郡に拠りこれを拒んだ。建康城の平定に及び蒨は禁錮に坐したが、まもなく赦されて起用され後軍臨川王外兵参軍となり、臨川王友・中書侍郎・太子家令・黄門侍郎に累遷し南兗州大中正を領し、太子中庶子に遷り中正はもとのままとし、中権始興王長史に転じ、出でて伏波将軍晋安内史となり、政を清約に行い寛恵を旨とし吏民はこれに便を得た。詔により寧朔将軍南康王長史として府州国事を行うよう徴され、まもなく太尉臨川王長史に遷り尚書吏部郎・右将軍に転じた。蒨は方雅で風格があり、僕射徐勉は権重を恃み自ら重んじたので在位の者はみな宿士であってもこれを敬ったが、独り蒨と王規のみが対等の礼で応じ屈しなかった。勉は蒨の門客翟景を通じ第七子の繇のために蒨の娘との婚を求めたが、蒨は答えず、景が再び言うと景を杖四十に処した。これにより勉と仲違いし、散騎常侍を除されたが拝さなかった。この時、勉はまた子のために蒨の弟葺および王泰の娘の二人を求めたがいずれも拒まれ、葺は吏部郎として曹中の幹(属吏)を杖ったことに坐して免官され、泰は疾を理由に出て太守を守った上で散騎常侍に遷った。これらはみな勉の意によるものであった。初め天監六年、侍中・常侍を竝びに帷幄に侍らせ門下を二局に分け集書に入れる詔があり、その官品は侍中に視されるが華冑の悦ぶところではなかったため、勉は泰を斥けてこれに充てた。蒨はまもなく司徒左長史に遷った。初め王泰が閣を出た際、高祖は勉に「江蒨の資歴は選部に居るべきだ」と語ったが、勉は「蒨には眼病があり人物にも通じておりません」と答え、高祖はこれにより止めた。光禄大夫に遷り、大通元年、卒した。時に年五十三。詔により本官を贈られ、諡は肅といった。蒨は学を好み朝儀故事に殊に精しく、江左遺典三十巻を撰したが未完のまま卒した。文集十五巻がある。子の紑については孝行伝にある。
史論
- 史臣は言う。王氏は姫姓より以降、秦漢を経て英哲が続き、東晋に至って王導が江左を経綸し、時人はこれを管仲になぞらえた。その後も冠冕が相い映え台衮が相い襲い、名を帝籍に列ね慶が子孫に流れ、まことに盛族というべきである。王瞻らはその基業を承け国の華として重んじられ、子には才行があると称された。張充は若くして節操を持たなかったが晩年に折節し典選にあっては廉平と号された。柳惲は多芸で称えられ、蔡撙は方雅で著名であり、江蒨は風格で顕れた。いずれも梁室の名士であった。