出自と経歴
- 蔡撙は字を景節といい、済陽考城の人で、父興宗は宋の左光禄大夫・開府儀同三司で前代に重名があった。撙は若くして方雅で退黙、兄の寅とともに知名であった。国子生に選補され高第に挙げられ、司徒法曹行参軍となり、斉の左衛将軍王儉は府僚を高く選び撙を主簿とし、建安王文学・司徒主簿・左西属に累遷した。明帝が鎮軍将軍となると従事中郎に引かれ、中書侍郎・中軍長史・給事黄門侍郎に遷り、母の喪により墓側に廬した。斉末は多難でも服喪を終えると墓所に居り続け、太子中庶子・太尉長史を除されたがいずれも就かなかった。梁台が建てられると侍中となり、臨海太守に遷ったが公事に坐り太子中庶子に左遷され、また侍中・呉興太守となった。天監元年、宣城郡吏呉承伯が妖道を挟んで衆を集め宣城を攻め太守朱僧勇を殺し、そのまま旁県を転戦し山を踰えて呉興を寇し、通過する所はことごとく残破された。その衆は二万を数え郡城を奄襲したが、東道はもとより兵革に慣れず吏民は恇擾して奔散し、みな撙に避けるよう請うたが、撙は堅く守って動かず勇敢な者を募って郡を固めた。承伯が鋭を尽くして撙を攻めると、撙は衆を出して門で拒戦させ、手に応じて摧破し陣頭で承伯を斬った。余党はことごとく平定され、信武将軍を加えられた。度支尚書に徴され、中書令に遷り、また信武将軍晋陵太守となり、還って通直散騎常侍・国子祭酒を除され、吏部尚書に遷り選にあっては弘簡と称えられ、また侍中として秘書監を領し、中書令に転じ侍中はもとのままとした。普通二年、出でて宣毅将軍呉郡太守となり、四年、卒した。時に年五十七。追って侍中・金紫光禄大夫・宣恵将軍を贈られ、諡は康といった。子の彦熙は官を中書郎・宣城内史に歴任した。