梁書卷二十一 列傳第十五 柳惲

出自と経歴

  • 柳惲は字を文暢といい、河東解の人である。若くして志行があり学を好み尺牘を善くし、陳郡の謝瀹と隣り合って住み瀹に深く友愛された。初め宋世に嵆元栄・羊蓋がともに琴を善くし戴安道の法を伝えると言われていたが、惲は幼くしてこれに学びその妙を窮めた。斉の竟陵王はこれを聞いて法曹行参軍に引き、大いに賞せられた。王がかつて後園で酒を置き、晋の相謝安の鳴琴が側にあったのを惲に授けると、惲はこれを弾じて雅弄となし、子良は「卿の巧みさは嵆康の心を越え妙は羊侃の体に至る、良質美手はまことに今日にあり、当世に竒と称されるにとどまらず古の名手を追うに足る」と称えた。太子洗馬に累遷し、父の喪により去官し、服喪を終えて鄱陽相を試守し、吏属に三年の喪礼を尽くさせ、文教を布いて百姓に称えられた。還って驃騎従事中郎を除され、高祖が京邑に至ると惲は石頭で謁見し冠軍将軍・征東府司馬とされた。当時東昏がまだ平定されず士はなお苦戦していたが、惲は牋を上げて城の平定の日には先ず図籍を収めるべきこと、漢の高祖の寛大愛民の義に遵うべきことを陳べ、高祖はこれに従った。蕭穎冑が江陵で薨じたので、惲を西上させ和帝を迎えさせ、まもなく給事黄門侍郎として歩兵校尉を領し、相国右司馬に遷った。天監元年、長史として侍中を兼ね、僕射沈約らとともに新律を共定した。惲は行いを貞素に立て貴公子でありながら早くから令名があり、若くして篇什に工みで、始めて詩を作り「亭皐に木葉下り、隴首に秋雲飛ぶ」と詠むと、琅邪の王元長はこれを見て嗟賞し斎の壁に書き付けた。以後曲宴に預かるたびに詔により詩を賦した。かつて高祖の景陽楼登臨に和した詩の中篇に「太液に滄波起り、長楊に高樹秋づく、翠華は漢を承けて遠く、雕輦は風を逐うて遊ぶ」とあり、高祖から深く美とされ当時人々はこれを伝え称えた。惲は奕棊を善くし、帝はいつも侍坐させ棊譜を定めその優劣を論じさせた。二年、出でて呉興太守となり、六年、散騎常侍に徴され、左民尚書に遷り、八年、持節都督広交桂越四州諸軍事・仁武将軍・平越中郎将・広州刺史を除され、秘書監に徴され左軍将軍を領し、また呉興太守となった。政を清静に行い民吏はこれを懐しみ、郡にあって疾を得て自ら陳べて解任し、父老千余人が表を拝して陳請したが事は施行されなかった。天監十六年、卒した。時に年五十三。侍中・中護軍将軍を贈られた。惲は琴を善くし、かつて今の音律に転じて古法を棄てたとして清調論を著しその条流を具えた。少子偃(字彦游)は年十二で引見され何を読んでいるかと問われ「尚書です」と答え、また何の美句があるかと問われ「徳は善政を唯とし、政は民を養うことにあります」と答え、衆はみなその異才に驚いた。長城公主を尚し駙馬都尉を拝し、都亭侯・太子舎人・洗馬・廬陵鄱陽内史を歴任し、大宝元年に卒した。