出自と経歴
- 王泰は字を仲通といい、志の長兄慈の子である。慈は斉の時代に侍中を歴任し呉郡で名声が志より高かった。泰は幼くして敏悟で、年数歳のとき祖母が孫姪を集めて牀の上に棗栗を散らすと、群児はみなこれを争ったが泰独り取らず、その故を問われて「取らなくても自ずと賜るはずです」と答え、これにより中表の親族に異とされた。長じてからは温和で人はその喜怒の色を見なかった。著作郎として起家するも拝さず、秘書郎に改除され、前将軍法曹行参軍・司徒東閣祭酒・車騎主簿に遷り、高祖の霸府が建てられると泰を驃騎功曹史とした。天監元年、秘書丞に遷り、斉の永元末に後宮の火事で秘書の図書が散乱し尽きかけたが、泰は丞として表を上げ校定・繕写し、高祖はこれに従った。まもなく中書侍郎に遷り、出でて南徐州別駕従事史となり、職にあって能名があり、また中書侍郎に徴され吏部郎事を掌るよう勅され、給事黄門侍郎・員外散騎常侍に累遷しいずれも吏部を掌ったままとし、まもなく実任となった。長江を渡って以来、吏部郎は大選を掌らなくなり令史以下の小人で求競する者が前後に輻湊していたが、多くは職に称うことができなかったところ、泰はこれに関わりを通じず、吏となる者は先に至った者を即座に補い貴賎により請託で意を変えることがなかったため、天下はその公平を称えた。廷尉・司徒左長史に累遷し、出でて明威将軍新安太守となり、郡にあって和理で民心を得、寧遠将軍安右長史に徴され、まもなく侍中に遷り、太子庶子として歩兵校尉を領し、また侍中となり仁威長史・南蘭陵太守として南康王府州国事を行い、王が職を遷ると北中郎長史として豫章王府州国事を行い太守はもとのままとし、入朝して都官尚書となった。泰は人士との交わりに長け、士は多く泰を慕い選官に居ることを願ったが、まもなく吏部尚書となり衣冠の属望を集めたものの、選挙にあたる前に疾により散騎常侍・左驍騎将軍に改除され、未拝のまま卒した。時に年四十五、諡は夷。初め泰には子がなく兄の子祁を養っていたが、晩年に子廓を得た。