梁書卷十九 列傳第十三 劉坦

出自と斉代の経歴

  • 劉坦、字は徳度。南陽安衆の人。晉の鎮東將軍劉喬の七世孫。坦は若くして従兄の劉虬に知られた。齊建元の初め、南郡王國常侍となり、まもなく孱陵令に補せられ、南中郎録事參軍に転じて幹済(有能さ)で称された。南康王が荊州刺史であったとき坦は西中郎中兵參軍(長流を領する)となった。
  • 義師が起こると諮議參軍に転じた。当時、輔國將軍の楊公則が湘州刺史として夏口へ軍を率いて赴いたため、西朝(荊州側)では湘州の州事を代行する者を議論したが、坦は衆に「湘州の地は人心が動揺しやすく信を置きにくい。もっぱら武士を用いれば百姓は侵略を恐れ、文人を用いれば威略が振るわない。この州を鎮静させ城内の軍民が自給できるようにするには、老臣が先零を平定した故事にならうしかない。密かに自ら任じたいと思う」と述べ、衆はこれに従った。かくして輔國長史・長沙太守として湘州事を代行することとなった。

湘州の統治と乱の鎮圧

  • 坦はかつて湘州にあり多くの旧恩を施していたため、迎える者が多かった。着任するとすぐに有能な官吏を選抜し十郡に分けて派遣し、人丁を悉く徴発して租米三十余万斛を運ばせ、義師の資糧を十分に供給させた。
  • 当時、東昬は安成太守の劉希祖を遣わして西臺が選んだ太守范僧簡を平都で破らせ、希祖は檄を湘部に発した。始興内史の王僧粲がこれに応じ、邵陵の人は内史の褚洊を追放し、永陽の人の周暉は始安郡を攻めて起兵し皆僧粲に応じた。桂陽の人の邵曇弄・鄧道介は私怨の報復もあってこれに加わり、僧粲は自ら平西將軍・湘州刺史を号し、永陽の人の周舒を謀主として建寧に陣を構えた。これより湘部の諸郡は悉く蜂起し、臨湘・湘陰・瀏陽・羅の四県のみが無事であったが、州人は皆船で逃げ去ろうとした。坦は船をことごとく集めて焼き払い、将の尹法略を遣わして僧粲と対峙させた。
  • 前湘州鎮軍の鍾玄紹はひそかに僧粲に応じることを謀り、士庶数百人を結んで連名で決起の計画を立てていたが、坦はその謀を聞きながら知らぬふりをして訴訟の処理にかこつけ、夜になっても城門を閉じずに疑わせた。玄紹は決起の機を逸し、翌朝坦のもとを訪れその理由を尋ねた。坦は長く引き留めて話し込み、その間に密かに親兵を遣わして玄紹の家から書類を押収させた。玄紹が座にいるうちに収兵の報告が届き、謀反の文書一式が明らかとなり、玄紹はその場で罪を認め斬られた。その文書は焼却され、他の与党は一切問わなかった。人々は恥じ入りながらも心服し、州内は平定された。
  • 尹法略は僧粲と数か月対峙を続けたが、建康城が平定され楊公則が州に戻ると賊党はようやく散った。天監の初め、この功が論じられ荔浦縣男(食邑三百戸)に封じられ、平西司馬・新興太守に転じた。天監三年、西中郎に転じ、六十二歳で没した。子の泉が跡を継いだ。