梁書卷十七 列傳第十一 馬仙琕

出自と初期の経歴

  • 馬仙琕、字は靈馥。扶風郿の人。父の伯鸞は宋の冠軍司馬。仙琕は若くして果敢さで知られ、父の喪に礼を超えて痩せ衰えるほど哀毁し、自ら土を運んで墳を築き、手ずから松柏を植えた。
  • 郢州主簿から出仕し、武騎常侍として齊の安陸王蕭緬に小將として随った。緬の死後は明帝に仕えた。永元年間、蕭遥光・崔慧景の乱で軍功を重ね、その勲功で前將軍に至り、龍驤將軍・南汝隂譙二郡太守として出た。
  • 夀陽が陥落した折、魏将の王肅が国境を侵すと、仙琕は寡兵で衆敵を破る力戦をし、魏人は大いに恐れた。功により寧朔將軍・豫州刺史に進んだ。

義師への合流

  • 義師が起こり四方が呼応する中、高祖は仙琕の旧友である姚仲賔を遣わして説得させたが、仙琕は軍中で仲賔を斬って義師に殉じさせた(見せしめとした)。
  • 義師が新林に至っても仙琕はなお江西で兵を擁し、日々建康への漕運を掠奪していたが、建康城が陥落すると号哭して一晩過ごした後、兵を解いて罪に服した。高祖はこれを労い「射鈎斬袪(過去の敵対も咎めぬ故事)は昔の人も忌まなかった。卿が運を断ったことで自ら疑い絶つには及ばぬ」と言った。仙琕は「小人は主を失った犬のようなもの、後の主が飼えばまた役に立ちます」と謝し、高祖は笑って美とした。
  • まもなく仙琕の母が没すると、高祖はその貧しさを知り厚く賻を給した。仙琕は号泣し弟の仲艾に「大造の恩を蒙りながら未だ報いていないのに、また特別の恩沢を受けた。お前と共に心力を尽くして報いよう」と語った。

天監年間の軍功

  • 天監四年、王師の北討で仙琕は常に三軍の勇の筆頭に立ち、当たるところ悉く撃破したが、諸将が功を論じる中で彼だけは決して自分の功を語らなかった。理由を問われると「男子たるもの時に知られたなら、進んでは名を求めず、退いては罪を逃れない、それが平生の願いである。何の功を論じることがあろうか」と答えた。
  • 輔國將軍・宋安安蠻二郡太守を授けられ、南義陽太守に進んで山蠻をたびたび破り郡境を安定させた。功により浛洭縣伯(食邑四百戸)に封じられ、都督司州諸軍事・司州刺史(輔國將軍は元のまま)に転じ、まもなく貞威將軍に進んだ。
  • 魏の豫州の民、白皁生が刺史の琅邪王・司馬慶曾を殺して自ら平北將軍を号し、同郷人の胡遊を刺史に推して懸瓠を挙げて降ってきた。高祖は仙琕を遣わして応じさせ、また直閤將軍の武會超・馬廣に兵を率いて援護させた。仙琕は楚王城に進み、副將の齊苟兒に兵二千を分けて懸瓠の守りを助けさせた。
  • 魏の中山王元英が十万の大軍で懸瓠を攻めると、仙琕は馬廣・武會超らを三關に守らせたが、十二月に元英は懸瓠を破って齊苟兒を捕らえ、さらに馬廣を攻めて生け捕りにし雒陽へ送った。仙琕は救援できず、會超らも次々退散し、魏軍はついに三關を占拠した。仙琕はこの責を負って召還され、雲騎將軍、次いで豫章王の仁威司馬として出、雲麾と改号してまた司馬となり振遠將軍を加えられた。

朐山の戦いと晩年

  • 天監十年、朐山の民が瑯邪太守の劉昕を殺して城ごと魏に降った。詔により仙琕は仮節して討伐に赴いた。魏の徐州刺史盧昶が十余万の軍で来援したが、仙琕は戦うたびにこれを破り、昶は逃走。仙琕が兵を進めて追撃すると魏軍で逃れ得た者は十のうち一、二にすぎず、兵糧・牛馬・器械を数え切れぬほど鹵獲して京師へ凱旋した。太子左衞率に進み、爵を侯に進めて食邑六百戸を増した。
  • 天監十一年、持節督豫北豫霍三州諸軍事・信武將軍・豫州刺史(南汝隂太守を兼任)に転じた。仙琕の幼名は仙婢であったが、成長して「婢」の字が名として相応しくないため「女」を「玉」に替えて「琕」とした。
  • 将となり州郡を治めても、士卒と労逸を共にし、身の衣は布帛にすぎず、住まいに帷幕や衾屏もなく、行軍の際の飲食は最下級の従僕と同じとした。国境ではしばしば単身で密かに敵地に潜入し、砦・村落・要害の所在を探った。そのため戦えばしばしば勝ち、士卒も心から従った。高祖は深くこれを重んじた。豫州在任四年で没し、左衛將軍を贈られ、諡は剛。子の巖夫が跡を継いだ。