梁書卷十七 列傳第十一 王珍國
沛国相の人、字は徳重。斉の良将王廣之の子。地方官として治績を挙げた後、斉末には張稷・張齊と結んで東昬侯を弑逆し義師に呼応した。梁建国後は湘州刺史などを歴任する功臣となり、天監十四年に没した(諡は威)。
出自と初期の経歴
- 王珍國、字は徳重。沛国相の人。父の王廣之は齊の良将で、散騎常侍・車騎將軍に至った。
- 珍國は冠軍行參軍から出仕し、虎賁中郎將を経て南譙太守に累進。治績で名を知られ、郡内が飢饉に苦しんだ際には米穀・財を放出して窮民を救った。齊の高帝は自筆の勅で「卿の愛人治國は甚だ吾が意に副う」と褒めた。
- 永明の初め、桂陽内史に転じ盗賊を討って境内を粛清。任を終え都へ戻る途中、江州刺史の柳世隆が渚まで見送り、珍國の帰り荷が軽く質素なのを見て「真に良二千石と言うべし」と歎じた。
- 大司馬中兵參軍となり、武帝(齊)に深く評価され「近頃の将家の子弟に珍國のような者は少ない」と繰り返し称えられた。
斉末の官歴と義軍への呼応
- 安成内史、越騎校尉、冠軍長史、鍾離太守、巴東・建平二郡太守を歴任し、游擊將軍として戻ったが、父の喪により辞職した。
- 建武末、魏軍が司州を包囲。明帝は徐州刺史の裴叔業に渦陽を攻め取らせて後詰めとし、珍國は輔國將軍として兵を率いこれを助けた。魏将の楊大眼の大軍が突如到来すると叔業は恐れて軍を捨てて逃走、珍國は殿軍を率いたが間に合わず大敗した。
- 永泰元年、会稽太守の王敬則が反乱。珍國はまた軍を率いてこれを拒ぎ、平定後に寧朔將軍・青冀二州刺史(将軍号は元のまま)に昇進した。
- 義師(蕭衍の挙兵)が起こると、東昬(廃帝)は珍國を軍とともに京師へ召還し、建康城に入って布陣させた。義師が到着すると珍國は朱雀門に出て布陣したが王茂の軍に敗れ、城内に退いた。その後ひそかに郄纂を遣わし明鏡を高祖(蕭衍)に献じて誠意を示すと、高祖は金を断って(誓約の証として)応えた。
- 城中では誰もが義に従いたいと思いながら誰も先んじて動こうとしなかった。侍中衞尉の張稷が諸軍を都督していたため、珍國は密かに張稷の腹心である張齊と結んで稷を口説き、稷はついに応じた。
- 十二月丙寅の早朝、珍國は稷を衞尉府に招き入れて兵を発し、雲龍門から入って東昬を内殿で斬った。稷とともに尚書僕射王亮らと西鍾下で会し、中書舍人裴長穆らに東昬の首を高祖のもとへ届けさせた。
梁朝での官歴
- 功により右衛將軍を授けられたが辞退し、さらに徐州刺史を授けられたがこれも固辞して京師に留まることを願い、金帛を賜ってもまた固辞した。勅答では「昔、田子泰が絹穀を固辞したように、卿の国を思う情の深さはまことに嘉すべし」と称えられた。
- 後の侍宴で帝が「卿の明鏡は今もあるか、昔の金はどこにあるか」と問うと、珍國は「黄金は謹んで臣の肘にあり、失うことはございません」と答えた。再び右衛將軍となり給事中を加え、左衛將軍に進み散騎常侍を加えられた。
- 天監の初め、灄陽縣侯(食邑千戸)に封じられ、都官尚書を拝し常侍はそのまま。天監五年、魏の任城王元澄が鍾離に侵攻すると、高祖は珍國に討賊の方略を問い、珍國は「臣は常に魏の兵が少ないことを患え、多いことは苦にしない」と答えた。高祖はその言葉を壮とし、假節を与え諸軍とともに討伐させた。
- 魏軍が退くと班師し、使持節・都督梁秦二州諸軍事・征虜將軍・南梁秦二州刺史として出鎮。折しも梁州長史の夏侯道遷が州ごと魏に降ったため、珍國は歩道より魏興を出て襲撃しようとしたが果たせず、そのまま留まって鎮守した。功が無いことを理由に幾度も解任を願い出たが高祖は許さず、宜陽縣侯に改封(食邑・戸数は元のまま)。召還されて員外散騎常侍・太子右衞率、後軍を加えられ、まもなく再び左衞將軍となった。
- 天監九年、使持節・都督湘州諸軍事・信武將軍・湘州刺史として出鎮し四年在任。召還されて護軍將軍、通直散騎常侍・丹陽尹に進んだ。天監十四年に没し、車騎將軍を贈られ、鼓吹一部・賻銭十万・布百匹を給され、諡は威。子の僧度が跡を継いだ。