梁書卷十六 列傳第十 王亮

出自と斉での栄達

  • 王亮、字は奉叔、琅邪臨沂の人。晋の丞相王導の六世孫である。祖父の王偃は宋の右光禄大夫・開府儀同三司、父の王攸は給事黄門侍郎。名家の子として宋末に公主を娶り駙馬都尉に拝され、秘書郎から桂陽王文学・南郡王友・秘書丞と累遷した。斉の竟陵王蕭子良が西邸を開いて才俊を集めた際、王亮も士林館に招かれ、その像を描かせるほど遇された。
  • 中書侍郎、大司馬従事中郎を経て衡陽太守として出向したが、南の地が卑湿だとして赴任を辞退した。給事黄門侍郎に遷り、まもなく晋陵太守を拝すと在職清廉で善政の誉れがあった。斉の明帝即位を聞いてこれを喜び、領軍長史に引き立てられて厚遇を受けた。明帝即位後、太子中庶子・尚書吏部郎と累遷し、選任の的確さで称された。侍中に遷り、建武末には吏部尚書となった。

江祏との関係と義師来降

  • 当時、尚書右僕射の江祏が朝政を握り多くの登用を行い士子の帰する所となっていたが、王亮は自ら選部を司るゆえにしばしば異議を唱えた。もともと王亮は江祏がまだ吏部郎でなかった頃から、江祏が帝の内弟であることから親しくし、江祏もこれに応えて声望を高めてやったため、深く帝に重んじられるに至り、江祏誅殺後も再び親しく交わった。
  • 江祏の誅殺後、小人が権をほしいままにし人事はすべて帝の寵臣によって行われたが、王亮はこれを止められず、表向きは慎重を装いつつ内実は見識なく、人選も資格の序列に従うのみで世評は高くなかった。通直散騎常侍・太子右衛率、尚書右僕射・中護軍に累進したが、東昏侯の暴政の中、王亮は日和見して容れられるままとし、辛くも誅殺を免れた。義師(蕭衍軍)が新林に至ると内外の百官はこぞって迎えに赴いたが、身の危険から動けぬ者は間道で誠意を送った。王亮だけは誰も送らなかったが、都城が平定されると人々はかえって王亮を首班に推した。王亮が高祖に見えると、高祖は「倒れても支えなかった、宰相としてどうしてこれを罪に問えようか」(過去は問わないの意)と言った。
  • 霸府が開かれると大司馬長史・撫軍将軍・琅邪清河二郡太守となった。梁台が建つと侍中・尚書令を授けられたが固辞し、代わりに侍中・中書監・兼尚書令となった。高祖受禅後、侍中・尚書令・中軍将軍に遷り佐命に列し、豫寧県公に封ぜられ食邑二千戸を得た。

弾劾と失脚

  • 天監二年(503年)、左光禄大夫・侍中・中軍将軍(如故)に転じたが、元日の朝会に王亮は病と称して登殿せず、別室で酒宴を設けて談笑していた。数日後、詔で公卿を見舞わせたが王亮に病の様子はなく、御史中丞樂藹が大不敬として棄市の刑を奏上、詔により削爵・庶人に廃された。
  • 天監四年(505年)夏、高祖が華光殿で群臣に宴し「日が傾くまで政務を聞き、得失を知りたい、諸卿は忌憚なく意見を尽くせ」と言うと、尚書左丞の范縝が立って「司徒謝朏はもと虚名だけであるのに陛下はこれを抜擢し、前尚書令王亮には実際の治績があったのに陛下は棄てられた。愚臣には理解できません」と述べた。高祖は色を変えて別のことを言うよう促したが、范縝は言い張ってやめなかった。
  • 御史中丞任昉が奏上し、范縝が晋安から帰任した際「自分は他の誰も訪ねず王亮だけを訪ね、他の誰にも贈り物をせず王亮にだけ贈った」と語ったとの風聞を伝え、また梁州刺史夏侯珍国の宴で范縝が問われもせぬのに褒貶を並べ立て、司徒謝朏を貶め庶人の王亮を持ち上げたことを問責し、范縝の言動を「衣冠の家に生まれながら言行が乱れ、里巷を誇り朝廷を騒がせ、曲学阿世の徒である」と厳しく糾弾、義師来投の際も遅参し功もないのに褒賞を受け、要職に就いて私利を図ったと弾じ、免官の上、廷尉に付し法により処断することを求めた。詔でこれを許可した。
  • 高祖は璽書で范縝に「王亮は才も凡庸で世に知られたことはなく、かつて英傑の列に加わっていたが、晩節は江祏に諂い、吏部にあっては梅虫児・茹法珍に付き従って昏政を助け、天下を混乱に陥れた、その罪をどうして論じずにおけようか。義師来投の際の功に免じて過去を問わずにいたが、王亮は結局不忠を重ね姦賄が明らかになった」として、范縝の弁明を退けた。王亮はこれにより門を閉ざし賓客を絶ち、母の喪に服して礼を尽くした。天監八年(509年)、詔で秘書監に起用され、通直散騎常侍を加えられ、数日で太常卿に遷り、九年(510年)中書監・散騎常侍に転じ、その年に卒去した。詔で銭三万・布五千匹を賻贈し、諡は煬といった。