出自と若年
- 字は元瑜、東平范の人。代々広陵に居し、寒門の出であった。幼くして師について学んだ折、人相見が諸生の中から僧珍を指して「この者は奇声を持ち、封侯の相である」と博士に告げた。20余歳で宋の丹陽尹劉秉に仕え、秉の誅後は太祖文皇(蕭順之)の門下書佐となった。身長7尺5寸、容貌堂々で、軽々しく振る舞わなかったため同輩から敬われた。
- 太祖が豫州刺史となると典籤・帯蒙令として職務を全うした。太祖が領軍に遷ると主簿に補された。妖賊唐宇が東陽を侵した際、太祖は東征し僧珍に行軍の庶務を任せた。僧珍の自宅は建陽門の東にあったが、出征命令が下って以降は毎日建陽門の道を通っても私邸に立ち寄らず、太祖はこれをもって一層彼を評価した。丹陽尹の下では郡督郵に任じられた。
高祖に随従した経緯
- 斉の随王蕭子隆が荊州刺史として出鎮すると、斉武帝は僧珍を子隆の防閤としてこれに随行させた。永明9年、雍州刺史王奐が反すると、僧珍は勅により平北将軍曹虎の下で典籤・帯新城令となった。魏軍が沔北を侵した際、司空陳顕達が出討し僧珍を見て非凡と認め、人払いをして「卿には貴相がある、努めよ」と語った。
- 建武2年、魏が五道から南侵し高祖が義陽を援けた際、僧珍もこの軍に従った。長沙宣武王が梁州刺史であった時、魏に包囲され連月にわたり音信が絶え、義陽と雍州の連絡路も断たれた。高祖が襄陽へ使者を送ろうとしたが誰も名乗り出ない中、僧珍が固く志願し、単舸で出発、援軍を督励し宣武王の書を得て帰還した。高祖はこれを大いに賞した。
- 事態が落ち着くと羽林監に補された。東昏侯が即位し司空徐孝嗣が朝政を掌ると共事を求められたが、僧珍は長続きしないと見て赴かなかった。高祖が既に雍州にあったため西帰を願い、邔令に補された。高祖の下で中兵参軍として心腹の任を委ねられ、密かに死士を養い帰服する者が多かった。高祖が武勇の士を招くと万余人が応じたため、僧珍は城西の空地に数千間の建物を計画し、材木となる竹を檀溪に沈め茅を山のように積んだが実際には用いられなかった。僧珍だけがその真意(後の船材とする意図)を悟り、私かに櫓数百張も準備した。
挙兵と建康平定
- 義兵が起こる前夜、高祖は僧珍と張弘策を招いて計を定め、翌朝諸軍を集めて挙兵、檀溪に沈めていた材木と竹を悉く取り出し艦船に仕立て茅で葺いて一気に整えた。将士が出発に際し先を争って櫓を奪い合ったが、僧珍が予め準備していた分を1船2張ずつ配ると争いは収まった。高祖は僧珍を輔国将軍・歩兵校尉とし、卧内に出入りさせ意向を伝達する役を任せた。郢城の戦いでは偃月塁に陣取り、さらに騎城を攻略、郢州が平定された。
- 高祖は僧珍を前鋒大将軍に進めた。大軍が江寧に至ると、高祖は僧珍と王茂に精兵を率い赤鼻邏へ先登させた。東昏の将李居士がこれと戦い、僧珍らは要撃して大破した。僧珍は王茂と白板橋に塁を築き、茂が越城に移った後も僧珍は白板を守った。李居士は僧珍の兵が少ないのを見て抜き、鋭卒1万で城に迫った。僧珍は「今は力が敵わぬから戦わず、遠矢もかけず塹に至らせてから一気に破れ」と将士に命じ、敵が塹を越え柵を抜いたところで矢石を降らせ、自ら馬歩300で背後を突き、内外呼応して大破、鎧甲・武器を数え切れぬほど鹵獲した。さらに僧珍は越城を攻略、東昏の大将王珍国が車営を淮水を背にして布陣すると、王茂らと共に火車を放って営を焼き払い、その日のうちに建康城は瓦解して平定した。
- 高祖は僧珍に清宮の接収を命じ、張弘策と府庫を封印させた。本官のまま南彭城太守を帯び、給事黄門侍郎・領虎賁中郎将に遷った。高祖受禅後は冠軍将軍・前軍司馬、平固県侯(食邑1200戸)に封じられ、給事中・右衛将軍を経て左衛将軍・散騎常侍を加え、秘書省に入直し宿衛を総括した。
北伐・南兗州刺史としての清廉
- 天監4年冬の北伐以降、軍務が多忙となり、僧珍は昼は中書省、夜は秘書省に詰めた。5年夏には羽林の精鋭を率いて梁城に出陣、その冬に凱旋し太子中庶子を領した。長らく郷里に帰っていなかったため墓参りを願い出ると、高祖はこれを機に本州の任を与えようと、使持節平北将軍・南兗州刺史とした。任地では公平に統治し親戚を私さず、従父兄の子・宏がねぎの商いをしていたが、僧珍が着任すると商売をやめて州の官職を求めた。僧珍は「国の重恩を受けた身として妄りに求めてはならぬ、早く商いに戻れ」と諭した。旧宅は市街の北にあり前に督郵の官舎があったが、郷人が官舎を潰して宅を広げるよう勧めても「督郵の官舎は昔からそこにある、私宅のために移すことはできぬ」と怒って拒んだ。姉が于氏に嫁ぎ、市の西の小屋で商店に挟まれて住んでいたが、僧珍は儀仗を連れてその家を訪ねても恥じることはなかった。
- 在任わずか百日で領軍将軍に徴され、散騎常侍・鼓吹一部を加え、以前と同じく秘書省に直した。大勲を立て心腹の任を総べ、恩遇の厚さは他に並ぶ者がなかったが、性格は極めて恭謹で、宮中で盛夏でも衣を解かず、御座に侍しては息を潜めて畏まり、飲食の際も箸を挙げなかった。ある時酔って柑子を一つ食べただけで高祖は「これは大いに進歩したな」と笑って言った。俸禄のほかに月々銭十万を賜り、その他の恩賜も絶えなかった。
- 天監10年、病を得ると御駕がしばしば見舞い医薬が日に数度施された。僧珍は親旧に「昔、蒙県で熱病にかかり黄疸が出た時、必ず助からぬと思われたが、主上に『富貴の相があるから死なぬ』と言われ、間もなく治った。今また富貴の身で同じ病に苦しんでいる、今度こそ助からぬだろう」と語り、その言葉通り、領軍府の官舎で卒した。時に58歳。高祖はその日のうちに弔問し、詔して散騎常侍・領軍将軍・平固県開国侯を贈り、諡を忠敬侯とした。高祖は痛惜し涙を流したという。長子の峻は早くに卒し、峻の子の淡が跡を継いだ。
史論
- 陳の吏部尚書姚察は評していう。張弘策は敦厚で慎み深く、呂僧珍は勤勉で怠りなく、鄭紹叔は忠誠篤実であり、3人とも王業の締構に力があった。僧珍が宮禁で謹み深く仕えたことと、紹叔が高祖に膝を交えて機知に富んだ言葉を尽くしたこととは、いずれも臣たる者の節度をわきまえたものであった、と。