出自と斉での経歴
- 字は文通、河東解の人。父の柳世隆は斉の司空。惔は17歳のとき斉武帝の中軍で参軍となり、のち主簿に転じた。斉初め尚書三公郎に入り、累進して太子中舎人となった。巴東王蕭子響の友として子響が荊州に赴くと随行したが、子響が小人を近づけたため禍を恐れて病と称して京師に戻り、難が起きた際には先に帰っていたため難を免れた。
- のち中書侍郎、中護軍長史を歴任し、新安太守に出たが治績がなく免職。しばらくして右軍諮議参軍事となり、建武末には西戎校尉・梁南秦二州刺史となった。
高祖への帰順と栄達
- 高祖が挙兵すると惔は漢中を挙げてこれに応じた。和帝即位後は侍中・領前軍将軍。高祖践阼後、護軍将軍に徴されたが拝任前に太子詹事・散騎常侍に遷り、功により曲江県侯(食邑千戸)に封じられた。
- 高祖は宴の折に詩を賜り「爾は実に群后の冠たり、余は実に功を念う」と称えた。またある時、高祖が「徐元瑜は嶺南で命に背いたが、周書の罪は子に及ばぬという、その諸子を宥そうと思うがどうか」と尋ねると、惔は「罰は嗣子に及ばず、賞は世に延ぶといいます、今またそれを見ました」と答え、時人はこれを名言とした。
- 尋いで尚書右僕射に遷る。天監4年の北伐では臨川王宏が諸軍を都督し惔は副とした。帰任後再び僕射となるが、久しい病のため金紫光禄大夫・散騎常侍・親信20人を給されて出仕を免じられ、のち使持節安南将軍・湘州刺史として出た。天監6年10月、州で卒去。時に46歳。高祖は喪服をまとって哀悼し、侍中・撫軍将軍を追贈、諡は穆。惔は『仁政伝』ほか詩賦を著したが辞義は粗雑であったという。子の照が跡を継いだ。
- 惔の第四弟の柳憕も美名があり、侍中・鎮西長史を歴任、天監12年に卒し、寧遠将軍・豫州刺史を追贈された。
柳忱――孝行と蕭頴冑への献策
- 字は文若、惔の第五弟。幼少期、父世隆・母閻氏が病んだ折、何年も帯を解かずに看病し、喪に服しては憔悴するほど哀悼した。司徒行参軍として起家し、累進して太子中舎人・西中郎主簿・功曹史となった。
- 斉の東昏侯が巴西太守劉山陽を遣わし荊州から高祖を襲わせようとした際、西中郎長史蕭頴冑は決断がつかず、忱と席闡文らを夜に呼んで議した。忱は「朝廷の狂悖な悪政は日に日に激しく、京師の識者は皆おびえて息を潜めている。今は幸い遠地にあって一時安んじているが、それは雍州(高祖の勢力)を盾にしているに過ぎない。かつて蕭令君(蕭諶)は精兵数千で崔慧景の十万を破りながら、結局群小に陥れられ酷い禍を招いた、前車の轍を忘れてはならない。もし敵の凶心が既に定まっているなら使君にも累が及ぶのは必至、しかも雍州は兵精く糧多く蕭使君(高祖)は当世随一の英雄、劉山陽の敵ではない。もし山陽を破れば荊州は軍律違反の責を負い、進退窮まる。よく考えるべきだ」と説いた。闡文もこれに深く同意した。高祖と頴冑は劉山陽を誘い出して斬った。
- 忱は寧朔将軍とされ、和帝即位後は尚書吏部郎、輔国将軍・南平太守に進み、侍中・冠軍将軍・太守如故に遷り、吏部尚書に転じたが拝さなかった。郢州平定後、頴冑が夏口への遷都を議したとき忱もこれに反対し「巴硖はまだ帰順しておらず、根本を軽々しく捨てて民心を動揺させるべきではない」と諫めたが頴冑は聞き入れなかった。しかし間もなく巴東の軍が硖口に至り遷都の議は自然消滅、識者はこれを忱の先見とした。
- 高祖践阼後、五兵尚書・領驍騎将軍となり建義の功により州陵伯(食邑700戸)に封じられた。天監2年に安西長史・冠軍将軍・南郡太守として出、6年に員外散騎常侍・太子右衛率に徴されたが赴任前に持節督湘州諸軍事・輔国将軍・湘州刺史に遷った。8年、従軍丁を私に放免した罪で免官、間もなく秘書監に入り、散騎常侍・祠部尚書に転じたが拝さぬうちに病を得て給事中・光禄大夫に改授されるも拝せず、天監10年に自邸で卒した。時に41歳。中書令を追贈され諡は穆。子の範が跡を継いだ。