経歴と最期
- 哀太子大器、字は仁宗、太宗(簡文帝)の嫡長子。普通4年(523年)5月丁酉生。中大通3年(531年)、宣城郡王に封ぜられ食邑2000戸。ほどなく侍中・中衛将軍となり鼓吹一部を給された。大同4年(538年)、使持節都督揚徐二州諸軍事・中軍大将軍・揚州刺史を授けられ侍中は元の如し。太清2年(548年)10月、侯景が京邑に寇し、太子は台内大都督に敕せられた。太清3年(549年)5月、太宗即位。6月癸酉、皇太子に立てられた。
- 大宝2年(551年)8月、賊侯景が太宗を廃し太子を害しようとした。賊党が景の命と称して太子を召した時、太子はまさに『老子』を講じており床を下りようとしたところへ刑人が至った。太子は顔色を変えず「久しくこの事あるを知る、その晩きを嗟くのみ」と言った。刑者が衣帯で絞めようとすると太子は「これでは殺せまい」と言い、帳竿下の縄を指して取り絞らせ、絶命した。時に年28。
- 太子は寛和な性格で神用端嶷、賊の手にあっても屈しなかった。かつて侯景が西上した際、太子を同行させたが、敗れて帰る途上部伍が整わなくなり、太子の乗る船が後方に取り残され賊衆に及ばなかった際、左右の心腹が北へ入ることを勧めたが、太子は「家国喪敗、生を図る志はない、主上が蒙塵している以上どうして違離に忍びよう、逃げ隠れるのは父を叛くこと、賊を避けるのではない」と言い涕泗嗚咽して前進を命じた。賊は太子に器度があるとして常に憚り、後患を恐れて先に禍を及ぼした。承聖元年(552年)4月、哀太子と追諡された。