梁書卷八 列傳第二 昭明太子

出自と生い立ち

  • 諱は統、字は徳施、高祖の長子。母は丁貴嬪。高祖がまだ男子を持たず義師を起こす前、太子は斉の中興元年(501年)9月に襄陽で生まれた。高祖受禅後、有司は儲副(皇太子)を立てるよう奏したが、天下が定まったばかりで多事のため高祖は許さず、群臣が固く請い、天監元年(502年)11月、皇太子に立てられた。当時幼少のため旧により内に居し、東宮の官属は文武ともに永福省に入直した。
  • 太子は生まれつき聡叡で、3歳で『孝経』『論語』を受け、5歳で五経を通読しみな諷誦できた。天監5年(506年)5月庚戌、初めて東宮に出居した。仁孝な性格で、宮を出てからも高祖を恋慕し、高祖もこれを知って五日に一度朝するたび留めて永福省に泊まらせ、五日か三日で宮に帰らせた。天監8年(509年)9月、寿安殿で『孝経』を講じ大義に通じ、講義の後は自ら国学に赴き釈奠に臨んだ。天監14年(515年)正月朔旦、高祖臨軒し太子を太極殿で冠した。旧制では太子は遠遊冠に金蟬翠緌纓を着けたが、この時さらに金博山を加えた。
  • 太子は容姿美しく挙止に優れ、読書は数行を一目で記憶した。宴遊のたび賦詩十数韻に及び、劇韻を命ぜられても即座に作り、添削の必要がなかった。高祖が仏教を篤く弘めると太子も三宝を崇信し、経典を博覧、宮内に慧義殿を別立して法集の場とし、名僧を招いて談論が絶えなかった。太子自ら三諦法身義を立て新意があった。普通元年(520年)4月、慧義殿に甘露が降り、至徳の感応とされた。

始興王の喪礼をめぐる議論

  • 普通3年(522年)11月、始興王蕭憺が薨じた。旧例では東宮は礼上傍系の親族に対する服喪義務が絶たれ、書翰も通常の礼のままとされていたが、太子はこれに疑いを持ち、僕射の劉孝綽に議させた。
  • 孝綽は張鏡撰『東宮儀記』を引き、三朝発哀の後は月を踰えるまで音楽を挙げず、鼓吹も服喪期間中は停止するのが例であるとし、傍系への服喪義務は絶たれても哀情まで絶たれるわけではないから、卒哭の後は通常通り音楽を用いるが哀を称えるべきだと論じた。僕射徐勉・左率周捨・家令陸襄も同意した。
  • 太子は令を下し、張鏡の説(音楽を挙げるのは大、哀を称えるのは小として大を用い小を忽せにする)に理論上の矛盾があると指摘し、なお慕悼の情を示すべきとした。司農卿明山賓・歩兵校尉朱异も慕悼の解として服喪の月まで及ぼすべきと議し、最終的にこれが典書に付され永久の準則とされた。

丁貴嬪への孝行

  • 天監7年(508年)11月、丁貴嬪が病んだため太子は永福省に戻り朝夕看病して衣帯を解かず、薨去に及んでは徒歩で喪に従い宮に帰り、殯に至るまで水漿を口にせず哭するたびに慟絶した。高祖は中書舎人の顧恊を遣わし「毀は性を滅ぼさぬのが聖人の制、礼は喪に勝たぬのが不孝、私がいる限りそこまで自らを毀損するな」と諭させ、太子は勅を奉じて数合の食を進めた。葬るまで麦粥一升を進めるのみだったため、高祖は「お前の摂取が少なすぎて衰弱している、私にはほかに病はなく、ただお前のことで胸が塞がって病になりそうだ」と勅して粥を強いさせた。日に一溢のみで菜果の味も嘗めず、もと壮健で腰帯十囲だったのが半分以上減じ、入朝のたび見る者は涙した。

監国と治世

  • 太子は元服後、高祖から万機を委ねられ、内外百司の奏事が前に積んだが、庶事に明るく細部まで理解し、誤りや巧妄があればその場で弁析して可否を示し、一人も弾劾せず、法獄の判断も多く全宥した。天下はその仁を称えた。性格は寛和で喜怒を色に表さず、才学の士を引き入れ賞愛を惜しまず、常に篇籍を討論し学士と古今を商確、文章著述を続けるのを常とした。当時東宮には書がほぼ三万巻あり、名士が集い文学の盛んなことは晋宋以来なかったほどであった。
  • 山水を愛し玄圃に亭館を築き、名素の朝士と遊んだ。かつて後池に舟を泛べた際、番禺侯蕭軌が女楽を奏すべきと勧めたが、太子は答えず左思「招隠詩」の「何ぞ必ずしも絲と竹とせん、山水に清音あり」を詠じ、侯は恥じて止めた。出宮二十余年、声楽を蓄えず、少時に大楽女妓一部を賜っても好まなかった。
  • 普通年間(520-527年)、大軍が北討し京師の穀が高騰した際、太子は自ら衣食を減じ常饌を小食に改めた。霖雨積雪のたびには腹心を遣わして閭巷を巡らせ貧困家を探させ、密かに振済し、また主衣の綿帛で襦袴を多く作らせ貧凍者に施し、死者で棺のない者には棺槥を備えた。百姓の賦役の労苦を聞くたびに容色を歛めた。戸口の未実を憂え、呉興郡がしばしば水害で失収したため、大瀆を漕して浙江に瀉すべきとの上言があった。
  • 中大通2年(530年)春、詔により前交州刺史王弁を遣わし呉郡・呉興・義興三郡の民丁を発して漕溝渠を開かせようとした際、太子は上疏し、三郡の民を発することの負担、征戍未帰の状況下での丁の疎少、動員による民蠹、去年の豊作にもかかわらず公私未だ足食していない現状、草竊の憂いなどを挙げて権に工事を停め優実(豊作)を待つべきと諫めた。高祖は優詔してこれを諭した。

薨去

  • 太子は孝謹天至、入朝のたびに未明から城門を守り、東宮での燕居中も一坐一起ごとに西南(高祖のいる方角)を向き、召されれば危坐して達旦した。中大通3年(531年)3月、寝疾し高祖の憂いを恐れて自ら手書して啓し、篤くなっても左右が奏聞しようとするのを許さず「至尊に私のこの様を知らせてどうする」と言い咽んだ。4月乙巳、薨去。時に年31。高祖は東宮に幸して哭し尽哀、袞冕を以て歛めることを詔した。諡を昭明とし、5月庚寅、安寧陵に葬られた。司徒左長史王筠に哀冊文を撰ばせた(華麗な四六文で太子の徳業を頌え哀悼する内容)。
  • 太子薨去に際し朝野は惋愕し、京師の男女は宮門に奔走して号泣し満路、四方の民・辺境の民も喪を聞いて慟哭した。著した文集20巻のほか、古今の典誥文言を撰して『正序』10巻、五言詩の善なるものを『文章英華』20巻、『文選』30巻を編んだ。