出自と経歴
- 諱は靈賔、琅邪臨沂の人。祖父王倹は太尉南昌文憲公。幼くして柔明淑徳、叔父王暕は「吾家の女師」と評した。
- 天監11年(512年)、晋安王妃を拝命し、哀太子大器・南郡王大連・長山公主妙䂮を生んだ。大通3年(529年)10月、皇太子妃を拝す。太清3年(549年)3月、永福省で薨じ、時に年45。その年太宗即位し皇后に追崇、諡は簡。大宝元年(550年)9月、荘陵に葬られた。先立って詔があり、西京覇陵・東漢寿陵の故事にならい山を利用した簡素な葬儀を命じた。
- 父王騫、字思寂、本名は玄成といったが斉高帝の諱を避けて改名した。公子として員外郎から起家し、太子洗馬・南昌県公襲封・義興太守・驃騎諮議・黄門郎・司徒右長史を歴任。性格は凝簡で当世に狎れず、子弟に「わが家門は素族であり流れに随い平進すべきで苟求すべきでない」と語った。永元末に侍中に遷るも拝さず、高祖の覇府が建つや大司馬諮議参軍となり、侍中・領越騎校尉に遷った。
- 高祖受禅の詔では、王騫の功(南昌公として含章履道、草昧の際に高祖を輔けた功)を張良・荀彧になぞらえて称え、南昌県公から侯に降封し食邑千戸とした。騫は爵を襲い度支尚書に遷る。天監4年(505年)、東陽太守に出、のち呉郡に徙る。8年(509年)、太府卿・領後軍将軍に入り、のち太常卿。11年(512年)、中書令・員外散騎常侍を加える。
- 高祖が鍾山に大愛敬寺を造る際、騫の旧墅が寺の側にあり良田八十余頃(晋の丞相王導の賜田)があったため、高祖は主書を遣わし宣旨してこれを求め寺に施そうとしたが、騫は「この田は売らない、勅取であれば言えない」と答え、応対も疎略だったため高祖は怒り、市評の田価で直に逼って還させた。これにより旨に忤い呉興太守に出されたが、郡で病臥し視事せず、召還されて再び度支尚書となり、給事中・領射聲校尉を加えられたが母の喪により去職。普通3年(522年)10月、卒した。時に年49。侍中・金紫光禄大夫を追贈、諡は安。子の王規は爵を襲い、別伝がある。