出自と経歴
- 諱は令光、譙国の人で代々襄陽に居住。樊城で生まれ、紫煙が室に満ちる神光の異があり名を光とした。相者は「この娘は大貴となる」と占い、高祖が州にあった際、丁氏がこれを聞かせ、貴嬪14歳で高祖が娶った。
- 生まれつき左腕に赤痣があり治しても消えなかったが、あるとき忽然と消えた。徳皇后(郗氏)に小心に仕え、供膳の際に神人を見たような心地を覚えたという。
- 高祖の義兵挙兵時、昭明太子が生まれたばかりで貴嬪と共に州城に留まり、京邑平定後に京都へ戻った。天監元年(502年)5月、貴人とする奏があったが未拝、同年8月に貴嬪となり位は三夫人の上、顕陽殿に居した。
- 太子が定位した際、有司は「母は子を以て貴し」の礼に基づき、皇太子の生母への礼遇を宋泰予元年の故事(皇太子生母陳太妃への百官敬礼)に准じて議定し、六宮三夫人も貴嬪と同列であっても皇太子に敬する礼と同様に貴嬪へ敬礼すべきとした。この議は宋元嘉中の始興王・武陵王の生母(潘淑妃・路淑媛)への吏敬の先例に基づき、貴嬪の礼数を皇太子と同等とすることとした。
- 貴嬪は仁恕な性格で、宮中で下の者にも歓心を得、華飾を好まず器服も質素、親戚の私謁を受けなかった。高祖の弘仏に従い、精進潔斎して蔬膳を勧め、受戒の日には甘露が殿前一丈五尺に降ったという。高祖の説く経義をよく理解し、浄名経に特に精通、供賜はすべて法事に充てた。
- 普通7年(526年)10月庚辰、東宮臨雲殿で薨去。時に年42。詔により吏部の張纉に哀策文を撰ばせた(后妃の徳を讃える哀悼の辞)。有司は諡を「穆」と奏し、太宗即位後に穆太后と追崇。太后の父丁仲遷は天監初め兗州刺史に至った。