総論――后妃制度の沿革
- 『易』に天地あって万物あり、万物あって男女あり、男女あって夫婦あるとし、周礼では王者は后・六宮・三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻を立てて天下の内治を聴くとする。『昏義』には天子と后は日と月、陰と陽の関係にたとえられる。
- 漢初は秦の称号を継ぎ、帝母を皇太后、后を皇后とし、美人・良人・八子・七子等の位を加えた。武帝は婕妤等十四等を制し、魏晋も漢法に因り夫人以下の位に増損があった。
- 高祖(武帝)は撥乱反正し奢逸を深く戒め衣食を節し、后(張皇后)は早く配徳を終えたため長秋(皇后位)は久しく空位となり嬪嬙の数も改めなかった。太宗・世祖はいずれも儲藩(皇太子・諸王時代)の妃が先に薨じ椒閫(后位)を立てなかった。よってここに撰録するのは、その闕を補うためである。
出自と経歴
- 諱は尚柔、范陽方城の人。祖父張次恵は宋の濮陽太守。母蕭氏は文帝の従姑にあたる。
- 宋元嘉中、文帝に嫁し、長沙宣武王懿・永陽昭王敷を生み、続いて高祖(武帝)を生んだ。懐妊中、室内に昌蒲(菖蒲)が花を咲かせる奇瑞を見てこれを吞み、その月に高祖を産んだという。産む夜には庭内に衣冠の人々が並んでいるのを見たとも伝わる。
- 続いて衡陽宣王暢、義興昭長公主令嫕を生んだ。宋泰始7年(471年)、秣陵県で薨じ、夏里舎により武進県東城里山に葬られた。天監元年(502年)5月甲辰、皇后と追尊され、諡は献。
- 父張穆之、字思静。晋の司空張華の六世孫。曾祖張輿は華の誅に坐して興古に徙されたが至らずして召還され、渡江後は丞相掾・太子舎人となった。穆之は方雅で識鑑あり、宋元嘉中に員外散騎侍郎となり、吏部尚書江湛・太子左率袁淑と交わり、淑がこれを始興王濬に薦めて濬は深く引納した。穆之は禍の兆しを察して外任を求め、湛は東県に用いようとしたが固く遠郡を乞い、寧遠将軍・交阯太守となり治績を上げた。刺史死去による交土大乱を威懐循拊して鎮め、宋文帝が交州刺史に任じようとしたが病没した。
- 子の張弘籍、字真芸、斉初に鎮西参軍となり官にて卒した。高祖践阼後、穆之に光禄大夫・金章を、弘籍に廷尉卿を追贈。弘籍に子なく、従弟弘策の第三子・張纘が嗣となった(張纘は別伝あり)。