梁書卷六 本紀第六 敬帝
敬皇帝、諱は方智、字は慧相、小字は法真。世祖(元帝)の第九子(?–557年)。江陵陥落と元帝の死を受け、王僧辯・陳霸先に擁立されて建康に迎えられ、紹泰元年(555年)に幼くして皇帝に即位した梁朝最後の皇帝。在位中は陳霸先が実権を握り、太平二年(557年)にその陳霸先に禅譲させられ江陰王に降り、まもなく薨じた。
年表(9件)
- 太清三年549年興梁侯に封じられた
- 承聖元年552年晋安王に封じられ食邑二千戸を与えられた
- 承聖二年553年平南将軍・江州刺史として出鎮した
- 承聖三年十一月554年江陵陥落を受け太宰とされ、京師へ迎えられることとなった
- 承聖四年・紹泰元年二月555年京師に至り朝堂に入った
- 承聖四年・紹泰元年七月555年王僧辯が蕭淵明を擁立し即位させたため、方智は皇太子に降された
- 承聖四年・紹泰元年九月555年陳霸先が王僧辯を襲殺して蕭淵明を廃し、方智が皇帝に即位した
- 太平二年十月557年陳王(陳霸先)に位を禅る詔を下した
- 太平二年557年陳霸先の践阼に伴い江陰王とされ、外邸で薨じた。時に年十六
出自と生い立ち
- 敬皇帝は諱を方智、字を慧相、小字を法真といい、世祖(元帝)の第九子である。
- 太清3年(549年)、興梁侯に封じられた。
- 承聖元年(552年)、晋安王に封じられ、食邑2000戸を与えられた。
- 承聖2年(553年)、平南将軍・江州刺史として出鎮した。
承聖三年(554年)
- 11月、江陵が陥落し、太尉・揚州刺史の王僧辯と司空・南徐州刺史の陳霸先が協議して方智を太宰とし、承制して迎え京師(建康)へ戻すことに決した。
承聖四年・紹泰元年(555年)
- 2月癸丑、尋陽より京師に至り朝堂に入る。王僧辯を中書監・録尚書・驃騎将軍・都督中外諸軍事とし司空を加え、陳霸先に班剣三十人を加えるなど諸将を要職に任じた(侯瑱を江州刺史、蕭循を太尉、蕭勃を司徒、張彪を郢州刺史とする、等)。
- 3月、北齊が上党王高渙を遣わし貞陽侯蕭淵明を送って梁の帝位を継がせようとした。東関で呉興太守裴之横がこれと戦って敗死。王僧辯は姑孰に出屯した。
- 4月、司徒陸法和が郢州を挙げて北齊に降った。江州刺史侯瑱を遣わしこれを討たせた。
- 7月辛丑、王僧辯は蕭淵明を采石から迎え入れ、甲辰に京師に入れて方智を皇太子とした。
- 9月甲辰、陳霸先が挙兵して王僧辯を襲殺し、蕭淵明を廃した。丙午、方智が皇帝に即位した。
- 冬10月己巳、詔を下し、承聖4年を紹泰元年と改元し大赦天下。蕭淵明を司徒・建安郡公(食邑3000戸)とした。壬子、陳霸先を尚書令・都督中外諸軍事・車騎将軍・揚南徐二州刺史(司空如故)とする。震州刺史杜龕が挙兵して長城の陳蒨を攻め、義興太守韋載がこれに応じた。癸丑、蕭循を太保、淵明を太傅、蕭勃を太尉、王琳を車騎将軍・開府儀同三司とする。戊午、生母夏貴妃を皇太后、妃王氏を皇后に立て、張彪を征東大将軍、徐嗣徽を征北大将軍、任約を征南大将軍に進号。辛未、陳霸先に韋載討伐を命じる。丙子、任約・徐嗣徽が反して石頭を占拠。丁丑、韋載が降り、義興が平定。周文育を長城救援に遣わす。
- 11月庚辰、齊の翟子崇・劉仕栄・柳達摩らが任約に呼応し石頭に入る。庚寅、陳霸先は京師に帰還。12月庚戌、徐嗣徽・任約が再び采石に至り齊の援軍を迎える。丙辰、侯安都が江寧でこれを迎撃し賊衆を大破、嗣徽・任約は江西に敗走。庚申、翟子崇らは降を請い北へ帰された。
太平元年(556年)
- 春正月戊寅、大赦天下。任約・徐嗣徽に与した者を一切問わないとする。簡文帝の諸子を追贈し、永安侯蕭確の子に邵陵王を襲封させる。癸未、杜龕は降って賜死、呉興郡を曲赦。己亥、蕭循は鄱陽王を襲封。張彪は臨海太守王懐振を剡巌で包囲した。
- 2月庚戌、周文育・陳蒨を遣わし会稽で張彪を討たせる。癸丑、彪の長史謝岐・司馬沈泰・軍主呉宝真らが城を挙げて降り、彪は敗走。丙辰、若耶村人が張彪を斬り首を京師に伝える。
- 3月丙子、東揚州を罷め会稽郡に復す。壬午、古今の銭を雑用させる。戊戌、齊の大将蕭軌が柵口から梁山へ向かい、陳霸先の軍主黄叢がこれを撃破、軌は蕪湖に退保。周文育・侯安都を梁山に配してこれを拒がせる。
- 夏4月丁巳、陳霸先が梁山へ赴き将帥を撫巡。壬午、侯安都が歴陽で齊の行台司馬恭を襲い大破、俘獲万を数えた。
- 5月癸未、太傅建安公蕭淵明が薨去。庚寅、齊軍が丹陽県に入り、丙申秣陵の故治に至る。周文育・徐度・杜稜らに防備を命じる。癸卯、齊軍が児塘に進み、帝は趙建の故籬門に出て内外を戒厳した。
- 6月甲辰、齊の潜軍が蔣山龍尾に至り玄武廟西北へ進んだ。乙卯、陳霸先が諸軍を率いてこれと戦い大破、齊の北兗州刺史杜方慶、徐嗣徽の弟嗣宗を斬り、徐嗣産・蕭軌・東方老・王敬宝・李希光・裴英起・劉帰義らを生擒し皆誅した。戊午、大赦天下、戦没した将士を弔い、無縁者は瘞埋させた。辛酉、解厳。
- 秋7月丙子、陳霸先は司徒に進み中書監を加える。丁亥、侯瑱を司空とする。8月己酉、太保鄱陽王蕭循が薨去。9月壬寅、改元・大赦、孝悌力田に爵一級を賜い、饑饉で流移した者は本土へ帰させる。陳霸先を丞相・録尚書事・鎮衛大将軍・揚州牧・義興郡公に進める。丁巳、徐度を領軍将軍とする。
- 冬11月乙卯、雲龍・神虎門を起こす。12月壬申、蕭勃を太保・驃騎将軍に進める。歐陽頠を安南将軍・衡州刺史、劉法瑜を安南将軍に進号。甲午、劉叡を汝陰王、蕭紞を巴陵王とし、宋斉二代の後を奉じさせた。
太平二年(557年)
- 春正月壬寅、詔して孔子の後裔(奉聖侯)を魯国から捜し立てさせ、廟堂を修めさせる。同日、諸州に中正を置き旧に依り訪挙させることを詔する。荊・雍・青・兗州が隔たっていても衣冠は淮海に多く寓するため中正を廃さないとし、会稽は大郡につき別置邑居を許す。王琳を司空・驃騎大将軍とし、尋陽・太原・斉昌・高唐・新蔡の五郡を分けて西江州を置く。宗室で開国承家した世子に本爵の襲封を許す。王通を尚書左僕射とする。丁巳、長沙王韶を征南将軍に進号。
- 2月庚午、徐度が東関に入る。太保広州刺史蕭勃が反し、欧陽頠・傅泰、蕭孜、余孝頃らに江州を攻めさせた。周文育・侯安都らに南討を命じる。戊子、徐度は合肥に至り齊船三千艘を焼く。癸巳、周文育が巴山で欧陽頠を生獲。
- 3月庚子、周文育の前軍丁法洪が蹠口で傅泰を生俘。蕭孜・余孝頃の軍は退走。甲辰、王琳を湘・郢二州刺史とする。甲寅、陳法武・譚世遠が始興で蕭勃を攻殺。
- 夏4月癸酉、江・広・衡三州を曲赦。己丑、四柱銭を鋳造し一を二十に准える。齊が使いを遣わし和を請う。壬辰、四柱銭を一を十に准えるよう改める。丙申、細銭を再び閉じる。蕭勃の旧記室李宝臧が懐安侯蕭任を奉じ広州で乱を起こす。戊戌、侯安都進軍し余孝頃は軍を棄て走り、蕭孜は降を請い豫章平定。
- 5月乙巳、周文育を鎮南将軍、侯安都を鎮北将軍に進号し共に開府儀同三司とする。丙午、徐度を南豫州刺史とする。戊辰、余孝頃が丞相府へ降を乞う。
- 秋8月甲午、丞相陳霸先に黄鉞を加え太傅を領し、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名を許し羽葆鼓吹を給う。9月辛丑、丞相を相国・総百揆に崇め、十郡を封じて陳公とし九錫の礼を備える。冬10月戊辰、陳公の爵を進めて王とし、十郡を増封し二十郡とする。陳王に十二旒の冕、天子の旌旂・出警入蹕・金根車六馬・五時副車・旄頭雲罕・八佾の楽舞・鐘虡宮県を許し、王后・王子女の爵命は旧儀に依らせる。辛未、詔して梁の徳が衰え太清・承聖・紹泰以来の禍難を述べ、相国陳王の功績を称え、禅譲の意を示した。
- 陳王が践阼し、帝を奉じて江陰王とし、外邸に薨じた。時に年16。敬皇帝と追諡された。
史論
- 史臣曰く、梁の末は横に潰え喪乱がしばしば起こり、この時にあたり天暦は既に去っており、敬皇帝が高讓したのは、あたかも重荷を釈くに似ている、と。
- 史臣・侍中・鄭国公魏徴曰く。高祖(武帝)は聡明にして稽古を好み、博物に通じ文武を兼ね、若くして不羈の度量があった。昏虐な東昏侯の政を憎み義旅を興し、樊漢に龍躍し湘郢を電撃、独夫(東昏侯)を取ることは遺を拾うがごとくであった。天位に即いてより徳を布き恵みを施し、蕩蕩の王道を開き靡靡の商俗を革め、文教を大いに修め礼容を盛んに飾り、玄風を鼓し儒業を闡揚し、干戈を数十年戢めた盛世は魏晋以来類がなかった。しかし末を息めず本を敦くせず、名を慕い事を好み浮華を崇尚し、孔墨を抑揚し釈老に流連し、夜を経て寝ねず日を終えて食らわぬこともあった。心はなお栄を遺てず、蒼頭の伍に厠りながら脱屣を高談しつつ黄屋の尊に恋々とした。老いて聴受に惑い権は姦佞に在り、諫を拒み卜に違い、門を開いて盗を揖き好を棄てて讐に即き、蕭牆に禍が起こり戎羯に身を殞ぼした。天下の衣冠は鋒鏑に斃れ、老幼は戎馬の足にかかった。太宗(簡文帝)は聡叡人に過ぎ多聞博達であったが、文が艶に用は寡く華にして実せず、義は疏通に乏しく哀思の音が風俗を移した。元帝は磐石の宗として分陝の任を受けながら、君親の難に当たり撫剣嘗胆して先んじて奔らず、内に觖望を懐き坐して時変を観望し、莽卓の誅より先に昆弟を戮し、猜忌に沈み無礼を多く行い、智弁を騁せて非を飾り忿戻を肆にして物を害した。爪牙・心膂の謀臣は拘囚されるか葅醢に遭い、朝の君子は懔然として身を太山のごとく安しと自ら謂った。浮淫を採り忠信を棄て、戎昭果毅は骨肉を先にして寇讐を後にした。六経を口誦し百氏に通じ仲尼の学・公旦の才があっても、驕矜と禍患を増すのみで、金陵の覆没・江陵の滅亡を救えなかった。敬帝は家の不造に遭い屯運を紹ぎ、征伐は己より出でず政刑も自ら由らず、時に伊霍のような輔弼もなく、高讓とならざるを得なかった、と。