梁書卷四 本紀第四 簡文帝

太宗簡文皇帝、諱は綱、字は世纘、小字は六通。高祖(武帝)の第三子で、昭明太子の同母弟(503–551年)。幼くして聡明で文才に優れ、高祖に「吾が家の東阿(曹植)」と称された。昭明太子の薨去により皇太子となり、太清三年(549年)に高祖の崩御を受けて即位したが、その治世は侯景の乱の渦中にあり、実権は侯景に握られた。のち侯景に廃されて幽閉され、弑逆された悲運の皇帝。

年表(7件)

出自と生い立ち

  • 太宗簡文皇帝は諱を綱、字を世纘、小字を六通といい、高祖の第三子で昭明太子の同母弟である。天監二年(503年)十月丁未、顕陽殿で生まれた。五年(506年)、晋安王に封ぜられ食邑八千戸を得た。八年(509年)、雲麾将軍として石頭戍軍事を領し佐吏を量置した。九年(510年)、使持節・都督南北兗青徐冀五州諸軍事・宣毅将軍・南兗州刺史に遷った。十二年(513年)、入朝して宣恵将軍・丹陽尹となった。十三年(514年)、出でて使持節・都督荆雍梁南北秦益寧七州諸軍事・南蛮校尉・荆州刺史となり、将軍号はもとのままとした。十四年(515年)、都督江州諸軍事・雲麾将軍・江州刺史に移り、持節はもとのままとした。十七年(518年)、徴されて西中郎将として石頭戍軍事を領し、再び宣恵将軍・丹陽尹となり侍中を加えられた。
  • 普通元年(520年)、出でて使持節・都督益寧雍梁南北秦沙七州諸軍事・益州刺史となったが、拝命前に雲麾将軍・南徐州刺史に改授された。四年(523年)、使持節・都督雍梁南北秦四州・郢州の竟陵・司州の随郡諸軍事・平西将軍・寧蛮校尉・雍州刺史に移った。五年(524年)、安北将軍に進号した。七年(526年)、権に荆益南梁三州諸軍事を都督することとなったが、この歳、生母穆貴嬪の喪に丁い上表して解任を陳べ、詔により本任に還って摂させた。中大通元年(529年)、詔により先例に依って鼓吹一部を給された。二年(530年)、徴されて都督南揚徐二州諸軍事・驃騎将軍・揚州刺史となった。三年(531年)四月乙巳、昭明太子が薨じた。
  • 五月丙申、詔して至公でなければ天下を主どることはできず博愛でなければ四海に臨めない、堯舜が譲を克くし徳をもって与えたように、文王が伯邑考を舎てて武王を立てたように、今宗廟の運は艱難であり淳風はなお鬱しており、克明克哲・允武允文でなければ神器の重責・龍図の尊位を荷えないとし、晋安王綱は文義生知にして孝敬自然、威恵は外に宣り徳行は内に敏く、群后の帰美・率土の宅心を得ているとして皇太子に立てるとした。七月乙亥、臨軒策拝され、東宮の修繕により権に東府に居った。四年(532年)九月、東宮に移り還った。

太清三年(549年)の即位

  • 五月丙辰、高祖が崩じた。辛巳、皇帝の位に即いた。詔して不造にして俄かに閔凶に丁い、大行皇帝が万国を奄棄され攀慕号躄するも身を寄せる所なく、寡徳をもって民の上に越居することとなり煢煢として疚みにあるが、藩輔に頼って社稷を安んじ先旨・顧命の遺澤を謹んで遵うため、大赦天下すべきとした。壬午、詔して興王の道著しく育物は寛を旨とし馭民は恵を旨とすべしとし、隷役に開奉国して虜となった者や辺疆で濫りに抄劫された者について、諸州にある北人の奴婢とされた者は妻児ともにいずれも原放すべしとした。癸未、妃王氏を追諡して簡皇后とした。
  • 六月丙戌、南康嗣王会理を司空とし、丁亥、宣城王大器を皇太子に立て、壬辰、当陽公大心を尋陽郡王、石城公大款を江夏郡王、寧国公大臨を南海郡王、臨城公大連を南郡王、西豊公大春を安陸郡王、新塗公大成を山陽郡王、臨湘公大封を宜都郡王とした。秋七月甲寅、広州刺史元景仲が侯景に応じようと謀り、西江督護陳霸先が挙兵してこれを攻め、景仲は自殺し霸先は定州刺史蕭勃を迎えて刺史とした。戊辰、呉郡を呉州として置き安陸王大春を刺史とした。庚午、司空南康嗣王会理に尚書令を兼ねさせ、南海王大臨を揚州刺史、新興王大壮を南徐州刺史とした。この月、九江で大飢饉となり民の相食む者が十四五を数えた。八月癸卯、征東大将軍・開府儀同三司・南徐州刺史蕭淵藻が薨じた。冬十月丁未、地震。十二月、百済国が使者を送り方物を献じた。

大宝元年(550年)

  • 春正月辛亥朔、国哀により朝会しなかった。詔して天下は至公の神器であり、昔三五は已むを得ずして臨蒞したのであって帝王の功・聖人の余事・軒冕の華は儻来の一物に過ぎない、太祖文皇帝は光を含みて量を大にし西伯の基を啓き、高祖武皇帝は道を二儀に洽らせ智を万物に周ねくしたが、斉の季にあたり彛倫が剥喪し同気離入の禍を蒙り元首が飽くなき欲を懐いたため、天下に推される運を承け億兆の心に因って掎角を承け讐恥を雪ぐこととなった、事は私のためでなく義は民のためであり功成りて居らず卑宮菲食を旨とした大慈の業は普く薫じたが、その詔はここ四紀にわたって出されなかったとし、寡昧にして哀煢は孔しく生霊は既に尽き、志は全きを図らず承鴻の緒に踐むこととなったが、履薄のごとく足りないと感じるとし、方に玄黙にあって栖心事外に在ろうとしたが王道未だ直らず天歩なお艱しく宰輔に憑って庶政を弘めるため、履端して号を建てるとして大赦天下、太清四年を改めて大宝元年とすると述べた。
  • 丁巳、天が黄砂を雨らせた。己未、太白が経天し、辛酉に至って止んだ。西魏が安陸に寇し同州刺史柳仲礼を執え漢東の地をことごとく奪った。丙寅、月が昼に見えた。癸酉、前江都令祖皓が義を起こし広陵を襲い賊の南兗州刺史董紹先を斬った。侯景は自ら水歩軍を率いて皓を撃ち、二月癸未、景は広陵を攻陥し皓らは皆害された。丙戌、安陸王大春を東揚州刺史とし呉州を省いて元の郡に戻す詔を下し、東方の擾乱が鎮まり呉会が粛清され済兗も澄謐となったので朝廷の逹官・斎内左右にも解厳を許すとした。乙巳、尚書僕射王克を左僕射とした。この月、邵陵王綸が尋陽から夏口に至り、郢州刺史南平王恪は州を綸に譲った。丙午、侯景が太宗を逼って西州に幸させた。
  • 夏五月庚午、征北将軍・開府儀同三司鄱陽嗣王範が薨じた。春から夏にかけて大飢饉となり民の相食む者が京師で特に甚だしかった。六月辛巳、南郡王大連に揚州事を行わせた。庚子、前司州刺史羊鴉仁が尚書省から西州に出奔した。秋七月戊辰、賊の行台任約が江州に寇し、刺史尋陽王大心は州を挙げて約に降った。この月、南郡王大連を江州刺史とした。八月甲午、湘東王繹が領軍将軍王僧辯を遣わし衆を率いて郢州に逼らせた。乙亥、侯景が自ら相国に進位し二十郡を封ぜられ漢王とし、邵陵王綸は郢州を棄てて走った。
  • 冬十月乙未、侯景がまた太宗を逼って西州に幸させ、曲宴して自ら宇宙大将軍・都督六合諸軍事を加え、皇子大鈞を西陽郡王、大威を武寧郡王、大球を建安郡王、大昕を義安郡王、大摯を綏建郡王、大圜を楽梁郡王に立てた。壬寅、景は南康嗣王会理を害した。十一月、任約が西陽に進拠し兵を分けて斉昌に寇し衡陽王献を執えて京師に送り害した。湘東王繹は前寧州刺史徐文盛を遣わし衆軍を督させ約を拒がせた。南郡王の前中兵張彪が会稽の若邪山で義を起こし浙東の諸県を攻破した。

大宝二年(551年)

  • 春二月、邵陵王綸は安陸の董城に走ったが西魏に攻められ軍は敗れ死んだ。三月、侯景が自ら衆を率いて西寇し、丁未、京師を発して石頭から新林まで舳艫が相接した。四月、西陽に至り乙亥、景は偽将宋子仙・任約を分遣して郢州を襲わせ、丙子、刺史蕭方諸を執えた。閏月甲子、景は巴陵に進寇し、湘東王繹が遣わした領軍将軍王僧辯は連戦するも剋つことができなかった。五月癸未、湘東王繹は遊撃将軍胡僧祐・信州刺史陸法和を遣わし巴陵を援けさせ、景は任約に衆を率いて援軍を拒がせた。六月甲辰朔、僧祐らが任約を撃破しこれを擒えた。乙巳、景は囲みを解いて夜逃げし、王僧辯は衆軍を督して景を追った。庚申、魯山城を攻めこれを剋し魏の司徒張化仁・儀同門洪慶を獲た。辛酉、進んで郢州を囲みこれを下し賊帥宋子仙らを獲た。鄱陽王の故将侯瑱が挙兵し豫章で偽の儀同于慶を襲い慶は敗走した。
  • 秋七月丁亥、侯景は京師に還り、辛丑、王僧辯の軍は湓城に次し、賊の行江州事范希栄は城を棄てて走った。八月丙午、晋熙人王僧振・鄭寵が挙兵し郡城を襲い、偽晋州刺史夏侯威生・儀同任延は遁走した。戊午、侯景は衛尉卿彭儁・廂公王僧貴に兵を率いて宮殿に入らせ、太宗を廃して晋安王とし永福省に幽閉し、皇太子大器・尋陽王大心・西陽王大鈞・武寧王大威・建安王大球および尋陽王の諸子二十人を害した。太宗の詔を矯って豫章嗣王棟に禅らせ大赦・改元し、南海王大臨を呉郡で、南郡王大連を姑孰で、安陸王大春を会稽で、新興王大壮を京口で使者を遣わし害した。
  • 冬十月壬寅、帝は舎人殷不害に「吾は昨夜土を吞む夢を見た、卿試みに朕のために考えてみよ」と言い、不害は「昔重耳は塊を餽られて後に晋国に還りました、陛下の今夜の夢はそれに符するのではないでしょうか」と答えた。王偉らが帝に酒を進めて「丞相は陛下の憂憤が久しいことを思われ、臣に上寿させます」と言うと、帝は笑って「寿酒もこれで尽きるまいか」と言い、酒肴と曲項琵琶を持たせ帝と共に飲んだ。帝は免れないことを知りながらも酣まで飲み尽くし「楽しみをなすのがここまでとは思わなかった」と言い、酔って寝ると偉は退出し、儁が土嚢を進め王脩纂がその上に坐った。かくて太宗は永福省で崩じた。時に年四十九。賊は偽って明皇帝と諡し廟を高宗と称した。
  • 明くる年三月癸丑、王僧辯は前の百官を率いて梓宮を朝堂に升らせ、世祖は追崇して簡文皇帝とし廟を太宗と称した。四月乙丑、荘陵に葬った。
  • 初め太宗は幽縶される際、壁に自序を題して「有梁の正士、蘭陵の蕭世纘、身を立て道を行うこと終始一のごとし。風雨晦なるも鶏鳴止まず。暗室を欺かざるに、豈に三光の此に至るを況んや。命なるかな、これを如何せん」と記し、また連珠二首を作った、その文は甚だ悽愴であった。
  • 太宗は幼くして敏睿、識悟は人に過ぎ、六歳にして既に文を属し、高祖はその早熟に驚き信じきれず御前で面試したところ辞彩は甚だ美しく、高祖は嘆じて「この子は吾が家の東阿(曹植)である」と言った。長じてからは器宇寛弘で喜怒を見せることはなく、方頬豊下・鬚鬢は畵くがごとく、眄睞すれば目光が人を照らし、書を読めば十行を俱に下し九流百氏も経目すれば必ず篇章辞賦を記憶し、筆を操れば立ちどころに成り、儒書に博綜し玄理を善く言った。年十一より庶務に親しみ、藩政を歴試して称ありとされた。穆貴嬪の憂に在っては哀毀骨立し昼夜号泣して声も絶えず、坐した席が涙で沾濕し爛れるほどであった。襄陽にあって表を拝し北伐を行い、長史柳津・司馬董当門・壮武将軍杜懐・竇振遠将軍曹義宗らを遣わし衆軍を進討させ南陽・新野等の郡を剋平し、魏の南荆州刺史李志は安昌城を拠って降り、拓地は千余里に及んだ。監撫にあっては弘宥するところが多く、文案簿領には纎毫も欺くことができなかった。文学の士を引納し賞接して倦むことなく、常に篇籍を討論した。
  • 高祖が製した五経講疏はかつて玄圃で奉述し、聴く者は朝野を傾けた。雅に詩を題することを好み、その序に「余は七歳より詩癖あり、長じても倦むことなし。ただ軽艶に傷つき当時宮体と号された」と言った。著した昭明太子伝五巻・諸王伝三十巻・礼大義二十巻・老子義二十巻・荘子義二十巻・長春義記百巻・法宝連璧三百巻がいずれも世に行われている。

史論

  • 史臣は言う。太宗は幼年より聡叡にして令聞は夙に標し、天才は縦逸にして古今に冠絶した。ただ文は時に軽華に累われ、君子の取らざるところであった。東朝で徳を養うに及び声は夷夏を被い、統を継ぐに及んでは実に人君の懿があった。まさに文帝・景帝に符するはずであったが運は屯剥に鍾り、賊臣に制せられて蘊むところを展べられず、ついに懐帝・愍帝の酷に罹った。哀しいかな。